カピストラーノ・ビーチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/23 06:16 UTC 版)
「デイナポイント (カリフォルニア州)」の記事における「カピストラーノ・ビーチ」の解説
1928年、南カリフォルニアとメキシコにおける石油生産で富を築いていたアメリカの巨大産業エドワード・ドヒニー企業体が、カピストラーノ・ビーチ(en)で多くの土地を購入した。 ドヒニーの息子ネドは、スペイン風住宅のコミュニティを構築するべく、開発会社のカピストラーノ・ビーチ・カンパニー(彼の妻の双子兄弟であるクラークとウォーレンスミス、および請負業者ルーサー・エルドリッジを含む)を結成した。デイナポイントの歴史家バウムおよびバーンズによると、エルドリッジは彼の家の2つの支配的な特徴、典型的にはスペイン風屋根の輪郭線と家の主室における大きな天井梁の使用を好んだ[要出典]。赤い陶磁器タイルで覆われた屋根の輪郭線には、短い屋根と長い屋根それぞれ1つずつに広がる低く盛り上がった切妻が組み込まれていた。天井梁は芸術家アレックス・メストン(en)によって描かれたステンシルによる芸術作品で飾られていた。エルドリッジが崖の上に最初のドヒニー邸、浜辺に住宅4棟、同地域に点在する他18棟の住宅を完成させたところで、この遠大な計画を悲劇が襲った。エドワード・ドヒニーはティーポット・ドーム事件での贈収賄による彼の刑事裁判の準備に忙しくなり、そして1929年2月16日、裁判で証言する予定だったネド・ドヒニーと秘書のヒュージ・プランケットが殺害(この殺人事件は今も未解決)されたのである。1931年、ドヒニーの家族経営する石油証券会社がネドへの追悼として41.4エーカー(168,000m2)の土地をカリフォルニア州に寄贈し、これが現在のドヒニー・ステート・ビーチ(en)である。カピストラーノ・ビーチの未改善な施設はエドワード・ドヒニー所有に戻り、1935年に死去した後、彼の妻および相続人に引き継がれた。1944年までに、全ての不動産が民間団体に売却されてしまった。 ドヒニー家はまた、カピストラーノ・ビーチにある当時セント・エドワード礼拝堂(St. Edward's Chapel)と呼ばれていた建物建設に資金を供給していた。この礼拝堂はやがて大きくなり小教区としての正規地位を得て、現在はドヒニー・ステート・ビーチを見下ろすデイナポイントの崖の頂上に場所が移された。
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