カップとスピーカーの八百長疑惑事件とジョンソン会長の退陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 04:00 UTC 版)
「1927年のメジャーリーグベースボール」の記事における「カップとスピーカーの八百長疑惑事件とジョンソン会長の退陣」の解説
前年のシーズン終了後に起こったタイ・カッブとトリス・スピーカーの八百長疑惑事件の発端は、1926年のシーズン終了後の10月にデトロイト・タイガースのフランク・ナヴィン球団社長が選手兼監督のタイ・カッブの監督解任を発表し、続いて11月2日にタイ・カッブ自身が野球界からの引退を声明し、そして1ヶ月後の12月2日にクリーブランド・インディアンスのトリス・スピーカーも監督を解任された後に、12月21日になってMLBコミッショナーのケネソー・マウンテン・ランディス判事が、1919年のタイガース対インディアンスのゲームで八百長があったとの告発を受けて、トリス・スピーカー、タイ・カッブ、そしてクリーブランド・インディアンスの元投手スモーキー・ジョー・ウッドの3名を極秘裏に審問していることを発表したことにより、事件として注目を集めた。 これはデトロイト・タイガースの元投手ダッチ・レナードがアメリカンリーグ会長バン・ジョンソンに、タイ・カッブとジョー・ウッドからとする2通の手紙を提出したことがその最初で、その手紙にはレナードとカッブ(タイガース側)、スピーカーとウッド(インディアンス側)の4人が1919年のシーズン終盤のタイガース対インディアンス戦で八百長を仕組んだとするもので、インディアンスがシーズン2位が決定した後にタイガースを3位に確保させるためにタイガースに勝たせてほしいとする申し出をスピーカーが承諾を与えたとしている。これに対してスピーカーは、レナードが1年前にタイガースからトレードで出されたことに関して感情的な反発からカッブやスピーカーらを恨んでいる、と反論してタイ・カッブは「ジョンソン会長が手紙をねつ造してレナードに2万ドル払っている」と言い出して会長を激しく告発した。 ダッチ・レナードは証人としてコミッショナー事務局へ出頭することを拒み、ランディス判事は結局1927年1月27日にカッブとスピーカーに対して無罪の裁定を下し、ウッドについてはこの時にはすでに引退していたため何ら言及せず、レナードについてはコミッショナー事務局に出頭しなかったことを非難した。そしてこれより先に1月8日にアメリカンリーグ会長バン・ジョンソンはその職を辞任した。1901年にアメリカンリーグをメジャーリーグとして発展させ、1920年のブラックソックス事件までは強大な力を振るったこのメジャーリーグ中興の祖はコミッショナーとの抗争に晩年の精力を使い果たして、最後はリーグ内の味方までも敵に回してしまい寂しく球界を去った。 タイ・カッブは事件が決着した後の1927年2月に尊敬していたコニー・マックの熱心な説得を受けてアスレチックスへの移籍し、打率.357の好成績を残し、史上初の通算4000本安打を達成した。トリス・スピーカーもインディアンスを去り、この年はワシントン・セネタースでプレーし打率.327を残した後に、翌1928年にアスレチックスへの移籍してタイ・カッブと同じチームでプレーして両者ともにこの年を最後に引退した。
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