カイロ会談
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その後、1943年(昭和18年)11月のカイロ会談では東南アジア作戦は主要議題とすることが議事日程で予告され、会談の前段としてスマトラ作戦とアンダマン作戦の2つを比較して参加国で検討が行われた。チャーチル以下、英国側はいずれもこれらの作戦に乗り気ではなかった。これらの作戦はオーバーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)後を予定していたが、OVERLORD後にはイタリア西部に対する上陸など地中海での作戦を切望していたからである。OVERLORD後に直ちにこれらの作戦のいずれかでも実施された場合には、地中海での作戦が台無しになると考えたのである。 一方、米国側は英国側の地中海での作戦提案を信用せず、スマトラ作戦、アンダマン作戦のいずれにしても中国に対する連合国の援助の保証として重要性が認められ、これらを断念することは蔣介石政権の弱体化に繋がると考えた。なお、カイロ会談には中華民国も参加していたので、英米は会談中の討議において中華民国に対しても外交上の配慮が必要であった。 なお、中華民国がこの会談で要求したのは下記の3点である。 ヒマラヤ山脈を越えて実施中の空輸作戦(英語版)(月間10,000トン)はビルマ作戦に関係なく継続すること。 TARZAN作戦(下記)は雲南の地上部隊のラシオ進撃と呼応する為、マンダレーを目標とすること。 海軍作戦は陸軍作戦と同調するように開始すること。
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