カイロ・カンファレンス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 00:07 UTC 版)
「ガートルード・ベル」の記事における「カイロ・カンファレンス」の解説
詳細は「カイロ会議 (1921年)」を参照 1921年3月21日、カイロでイギリスの植民地相チャーチルの主宰により、ベル、コックスそしてロレンスなどの「東洋学者」の選りすぐりのグループを招集してイギリス委任統治(オスマン帝国の分割(英語版))やイラクのような新興国家の境界を決定するための会議が行われた:365–369。(カイロ会議 (1921年))。ガートルードはロレンスを「寒い部屋で火をつける事ができる」と評したとされている。この会議でベル、コックス、ロレンスは第一次大戦中にアラブの反乱の扇動者だったマッカの太守ハーシム家(預言者ムハンマドの後裔と称していた)のフサイン(大戦後は論功行賞としてシリア・パレスチナ・ヒジャーズの王となる事が英仏により保証されていた。)の息子でフランスによってダマスカスを追放されていたファイサルをイラク国王とし、その兄のアブドゥッラーをトランスヨルダン(英語版)の首長とした新国家の建設を精力的に推進した:365–369。彼女はバグダードで没するまで、イラクのイギリス高等弁務官事務所の顧問を務めていた。 統治形態についてはまとまったものの、イラクの領土画定問題に議題が移った途端に紛糾した。クルド人(スンナ派)の北部、アラブ人(スンナ派)の中部、アラブ人(シーア派)の南部、それにペルシャ人、ユダヤ人、キリスト教徒などの地域が複雑に入り組んでいる地域の国境の画定にあたってベルは上記の3つの地域で一国を構成されるべきという持論を曲げなかった。この会議に同席していたロレンスは「クルド人地域のみトルコへのバッファーゾーンとしてイギリスが直接統治を続けるべき」という意見を出した。しかしベルはこれに耳を貸さず、ここにイラクの領土は画定された。ベルはロレンスより20歳も年長で、自分のアラブ情勢関与のキャリアはロレンスなどとは比較にならないと自負していたようだ。ベルはロレンスのペダンティスト的気質を煙たがっていたという側面も研究者の間では指摘されている。しかし結果的にはロレンスが抱いた危惧は正しかった。 ベルはパレスチナのアラブ系住民にユダヤ人の支配を押し付けるのは不公平という理由からシオニズム運動に反対した。彼女はバルフォア宣言を「最も深い不信」と見なし「これから起こるであろう恐ろしい事をすべて予見しているのに、それを防ぐために手を伸ばす事ができない悪夢の様なものだ。」と書いている。 サイクス・ピコ協定の責任者であるイギリスの外交官マーク・サイクス(英語版)は彼女の事を好まなかった。
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