オーストラリアでの運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/07/04 02:42 UTC 版)
「軽迫撃砲 (日本軍)」の記事における「オーストラリアでの運用」の解説
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、イギリスの自治領であったオーストラリアは本国の支援のために志願兵から成るオーストラリア帝国軍(Australian Imperial Force、AIF)を派遣することとなった。同じく自治領であった隣国のニュージーランドも派兵を決定し、イギリス軍の指揮下に入った両国の合同部隊はオーストラリア・ニュージーランド軍団(Australian and New Zealand Army Corps、ANZAC)と呼ばれた。オーストラリア陸軍は同国の自治領化によって1901年に誕生し、保有火器はイギリス・アメリカのものが中心であったが自国で生産を行っていた(オーストラリア陸軍がかつて運用した兵器(英語版)も参照)。しかし参戦によって兵器の需要が急速に増大し、また重工業が貧弱であったオーストラリアでは火砲など重装備はイギリス製のものを使用することとなった。イギリスは大戦初期に日本と軽迫撃砲の供給に関して交渉を行い、本砲の視察のためにイギリス大使館武官の代理人が大阪砲兵工廠に立ち入る許可を求めていた。日本側も交渉に応じ、泰平組合に本砲と弾薬を払い下げていた。こうして大戦中にイギリスに対し本砲16門と弾薬4,000発が供給され、オーストラリア軍も他のイギリス製火砲と共に本砲を運用することとなった。 1915年のガリポリの戦いでは急造迫撃砲であるガーランド迫撃砲と共にオスマン帝国軍に対する攻撃で使用された。本砲を単に「軽迫撃砲」と呼称した日本軍と同じくオーストラリア軍でも本砲に明確な名称を与えずに「ジャパニーズ・モーター(日本式迫撃砲)」と呼んでいたようで、博物館の展示や書籍などにもThe "Japanese Mortar"として紹介されている(右画像)。実物は現在でもロンドンの帝国戦争博物館(英語版)から貸与されたものが首都キャンベラのオーストラリア戦争博物館で展示されている。その解説板には、当初は日本式迫撃砲を恐れていた敵のトルコ軍だったが、塹壕の上に防護用の丸太を敷くことで砲弾をしのいだことが書かれている。
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