オーストラリアでの問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 14:43 UTC 版)
「ロス海支隊」の記事における「オーストラリアでの問題」の解説
マッキントッシュと隊の中核人員は1914年10月下旬にオーストラリアのシドニーに到着した。彼らはオーロラが南極航海の準備ができておらず、広範な修繕を必要としていることが分かって衝撃を受けた。さらにシャクルトンはモーソンからこの船を取得した条件を誤解していた。シャクルトンの名前による船籍登録すら適切に完成していなかった。モーソンは船に載せている装置や物資の大半について所有権を主張し、基本的な航行装置や船の居住区に必要なものまで全て取り替える必要があった。問題を複雑にしたのは、シャクルトンがマッキントッシュの使える遠征資金を2,000ポンドから1,000ポンドに減らしていたことであり、物資の無料提供を懇願したり、船を抵当に入れることで、差額を埋め合わせることを期待していた。隊員の給与や生活費などに使える現金は無かった。 このときシャクルトンはエンデュアランスに乗って南極に向かっており、届かない所にいた。オーストラリアにおける遠征の支持者で有名なのはエッジワース・デイビッドであり、ニムロド遠征では科学者主任を務め、マッキントッシュの隊が置かれていた苦境に関わっていた。彼らは遠征を活動させるだけの資金を集めることに貢献したが、隊員の中の数名が辞任し、冒険を止めた。出港寸前に採用されたのがアドリアン・ドネリーであり、元は機関車の技師で海の経験はなく、二等機関士として契約した。無線通信士のライオネル・フックはまだ18歳であり、電気について修行中だった。 これら全ての困難さがあったにも拘わらず、オーロラの準備が進んで、1914年12月15日にはシドニーを出港し、タスマニアのホバートに12月20日に到着し、南に向かうまえに最後の物資と燃料を補給した。12月24日、当初の計画からすれば3週間遅れで南極に向けて出港し、ロス島には1915年1月16日に到着した。マッキントッシュは1910年から1913年のテラノバ遠征でロバート・スコット大佐が基地にしたエバンス岬に岸の基地を設立することに決め、オーロラのためには安全な冬の停泊地をその近くに見つけた。
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