オナシスとの再婚
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「ジャクリーン・ケネディ・オナシス」の記事における「オナシスとの再婚」の解説
夫ジョンの死後、ジャクリーンのもっとも大きな不安は子供たちの安全の確保であった。大統領暗殺後1年間はシークレットサービスの警護がつき、ファーストレディになった時からずっと周囲の警護をしてくれたクリント・ヒルも暗殺事件後も引き続き警護にあたってくれたが、1964年末にそれも終了して、不安は増すばかりであった。 その不安は義弟にあたる「ボビー」ことロバート・ケネディの暗殺(1968年6月5日)によって頂点に達した。かねてよりアリストテレス・オナシスと交際していたジャクリーンは再婚と出国を決意、翻意を促す多くの人々の制止を振り切ってオナシスのもとに向かった。1968年10月20日、イオニア海に浮かぶスコルピオス島でジャクリーンとオナシスは結婚式をあげた。オナシスとの結婚によって子供たちの安全と自分の自由が同時に手に入ると考えていたが、しかし、今度はパパラッチたちに追いかけ回されるようになる。反対を押し切ってケネディ家を出たジャクリーンではあったが、ケネディ家とのつながりは公式にも非公式にも維持されていた。1969年11月に義父ジョーが危篤との知らせを聞いたジャクリーンはすぐにケネディ家に駆けつけ、その最期を看取り、葬儀に参加した。 パパラッチがギリシャの島でジャクリーンの裸を盗撮し、ハスラー誌の出版者ラリー・フリントはその写真を買い取り、『10億ドルの茂み』のタイトルでポルノ雑誌ハスラーの1975年8月号でそれを公表したこともあった。 再婚当初からジャクリーンとオナシスの関係は愛情に結ばれているとは言い難いもので再婚する時に子供を作らない契約書を結んでいた。オナシスから大金を貰い肉体関係となり性行為する夫婦だったので高級売春婦と呼ばれていた。1973年にオナシスの息子が飛行機事故で亡くなると、二人の夫婦関係はより気難しくなり、二人の関係は誰が見ても冷えきったものになっていた。パリ16区フォッシュ大通り界隈のアパルトマンをジャクリーン共々邸宅にもしていたが 、1975年3月にオナシスがパリで死去した際、ジャクリーンはそこに立ちあうことなく、遠く離れたニューヨークで暮らしていた。
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