オクラホマ支給基地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 09:46 UTC 版)
アンドリュー・ジャクソン大統領のもと、このオクラホマ州(旧インディアン準州)には、1830年以後、続々と全米からインディアン部族が集められ、「内務省が保留した土地」(Reservation=保留地)に隔離されていった。 1860年代から、オクラホマを囲む大平原からはアメリカ政府によって、平原インディアンの命の糧であるバッファローが「兵糧攻め」の目論みで組織的に駆逐され、野生界からほぼ絶滅させられた。狩の獲物が無くなり飢餓状態に陥った大平原のインディアンたちは保留地への幽閉を受け入れざるを得なくなったのである。保留地では、バッファローを追う移動生活を営んできた多くの平原部族が狩猟を禁止され、白人の農業文化を受け入れるよう強制された。 保留地を受け入れた平原のインディアンたちは、条約によって故郷を白人に譲らせられた見返りに、小麦粉、砂糖、コーヒー、干した果実、野菜などの食料を「年金」として支給されるようになった。しかしこれは彼らの自活力を奪い、骨抜きにするものであった[要出典]。 1868年11月18日、オクラホマ州に移住させられた平原のインディアンたちへの「年金」物資支給専用の基地として、「支給基地(Camp Supply)」が設置された。これは強硬なインディアン掃討戦で名を馳せたフィリップ・シェリダン陸軍司令官の旗振りで設けられたもので、1878年には「支給の砦」と改名された。 こうしてこの基地に、保留地のインディアンたちが馬車の列をなして食料を受け取りに来る光景は、基地が1894年9月に閉鎖されるまで、30年近く続けられた。あてがい扶持での生活を強要されたインディアンたちは堕落し、ウィスキーに耽溺し、やがて入植白人たちから「怠け者の厄介者」と捉えられるようになり、入植農家から起こった「インディアンに食わせるために白人が働かねばならないのか」という不満につながり、インディアンに対する数々の条約破棄、権利の剥奪へとつながっていった。これはオクラホマだけでなく、現在も全米のインディアンを囲む問題である。 この砦は閉鎖後に、1908年から「西部州立精神病院センター」となり、1988年に州議会によって「支給基地歴史地区」に指定され、「オクラホマ歴史協会」の運営によって歴史展示館となった。
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