エリーザベト・フリッツルとその家族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/28 00:48 UTC 版)
「フリッツル事件」の記事における「エリーザベト・フリッツルとその家族」の解説
警察に保護された後、エリーザベトとその6人の子供と母親のロゼマリアは地元の病院に入院して外部の環境から守られ、医療的、精神的な治療を受けた。地元当局はフリッツル家には新しいアイデンティティが必要だと考えたが、これは家族が選択するべきことであると強調した。 監禁されていた4人はほとんど日光に当たっていなかったため、非常に青白く、自然光には耐えられなかった。彼女らは、ビタミンD欠乏症で貧血だったと報じられている。また免疫系が未発達であることが疑われた。病院長のベルトールト・ケッペルリンゲルは、家族は数か月の入院が必要で、エリーザベトと2人の子供は光に慣れるためにさらに治療が必要であるとの見通しを語った。 2008年5月、入院中のエリーザベトと子供、母親によって作られたポスターが町役場に掲示された。そのメッセージでは、「私たち家族全員は、私たちの運命へのあなたたちの同情に対して感謝をしたいです」と地元の人々への感謝が述べられていた。さらに「あなたたちの慈悲は私たちが難しい状況を克服するのに大きな力になっています。そして、ここには私たちのことを本当に心配してくれる親切で正直な人がたくさんいることが分かりました。私たちは、私たちがすぐに通常の生活に戻れる道が見つかることを願っています」と続けた。 ケルスティンは2008年6月8日に家族と合流し、そこで昏睡状態から目覚めた。医者は、彼女が完全に回復したと語った。 2009年3月、エリーザベトと子供達は家族の隠れ家から追いやられ、精神病院に戻って治療が再開された。イギリスのパパラッチが台所に侵入し、写真を撮り始めた時には、取り乱したと言われている。 2009年3月18日、エリーザベトは自伝の執筆の準備のため、父ヨーゼフに対する裁判の2日目の審理を傍聴した。 裁判後、エリーザベトと6人の子供はオーストリア北部の無名の村に移住し、そこで砦のような家に住んだ。6人の子供は通院での治療が必要だった。「階上」だった子供は、彼らが捨て子だったというのは作り話だったこと、子供の頃には父であり祖父のヨーゼフから虐待を受けていたこと、兄弟が地下に監禁されていたこと等を初めて知った。また全員の子供達が、近親相姦で産まれた子供に共通する遺伝的な問題を抱えていた。エリーザベト自身はロゼマリアから疎遠にされていたと語っていたものの、階上で育った3人の子供がロゼマリアの家を定期的に訪れることは認めていた。ロゼマリアは小さなアパートに1人で住んでいた。 2009年6月、オーストリアの新聞は、エリーザベトがトーマス・Wとのみ呼ばれるボディガードの1人と交際を開始し、一緒に住んでいると報じた。
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