エピソード、伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 04:02 UTC 版)
本人いわく「ダンスを始めたのは、18歳のとき人から薦められたから」(笠井本人からの聞き書き) 1970年代に行われた「ソドムの120日」という公演で、弟子の山崎広太が師匠である笠井を食う演技をみせた。ドイツ留学は、山崎の力量にショックを受けたため、という噂がある(広く知られた噂。複数の舞踏関係者から聴取)。 よく似た背格好の女性ダンサー二人を起用した作品を好んで作る(初期天使館メンバーからの聞き書き)。 自宅の池を埋め立てて「天使館」を建てた。(笠井本人からの聞き書き) ドイツ語は堪能だが、英語はほとんど話せない。(笠井本人からの聞き書き) 長男は写真家・笠井爾示、次男はオイリュトミスト笠井禮示(笠井禮示オイリュトミー)、三男はコンテンポラリー・ダンサー笠井瑞丈である。 詩人吉岡実は笠井叡のファンのひとりであった。 俳人加藤郁乎、フランス文学者澁澤龍彦と親交があった。 はじめて土方巽の踊りをみたのは、1963年4月の堂本正樹演出リサイタル「降霊館死学」(於草月会館ホール)においてで、非常な感銘を受けたという。 「花粉革命」のポストパフォーマンストークには、漫画家の萩尾望都が参加した。 「舞踏界のニジンスキー」と呼ばれた(広く知られた事実。公演チラシなどにしばしばこう書かれている)。 「舞踊」との違いを表すための言葉を求めていた笠井叡は、「垂直的なイメージ」がある「舞踏」という言葉を、処女公演で使用した。当時、土方巽は「暗黒舞踊」と称しており、笠井の発案を受けて、採用されたといわれる。(『土方巽の舞踏』前掲書,p.60) 詩人鷲巣繁男は「天使論」執筆に協力している。 宗教学者鎌田東二は、「天使論」に影響を受けた。リュウジとトウジ往復書簡 2003年3月17日付書簡
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