エサルハドン死後のアッシリア
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「エサルハドン」の記事における「エサルハドン死後のアッシリア」の解説
エサルハドンの死後、息子のアッシュルバニパルがアッシリア王となった。彼の戴冠式に出席した後、兄弟のシャマシュ・シュム・ウキンはアッシリアが奪取していたバビロンのベール神像をバビロンに返還し、バビロンの王となった。バビロンにおいて、アッシュルバニパルはシャマシュ・シュム・ウキンの豪華な戴冠式の祝祭を後援した。王号を持つにも関わらず、シャマシュ・シュム・ウキンはアッシュルバニパルの家臣であった。アッシュルバニパルはバビロンで王の犠牲を捧げ続け(伝統的にバビロンの君主によって捧げられてきた)、帝国南部の総督たちはアッシリア人であった。軍隊と親衛隊もまたアッシリア人であった。シャマシュ・シュム・ウキンのバビロンにおける治世初期は概ね平和な時の中で、要塞と神殿の修復に時が費やされた。 アッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンが正しく君主として即位した後、アッシュルバニパルは中途に終わっていたエサルハドンの最後のエジプト遠征を完遂するべく前667年に出発した。前667年遠征では、アッシュルバニパルは経路で略奪しながら南はテーベにまで進軍した。勝利の後、プサムテク1世(彼はエサルハドンの宮廷で教育された)とネカウ2世(ネコ2世)を共にファラオとして残し、属王とした。前666年-前665年、アッシュルバニパルはタハルカの甥タヌトアメンによるエジプト再奪取の試みを打ち砕いた。 シャマシュ・シュム・ウキンは力を蓄えるにつれて兄弟の支配から独立する意向を強めていった。前652年、シャマシュ・シュム・ウキンはエラム、クシュ、カルデア人などアッシリアの敵対勢力の連合と同盟を結び、全て南部の都市においてアッシュルバニパルが新たにどのような犠牲を捧げることも禁止した。これは4年にわたる内戦を引き起こした。前650年までにはシャマシュ・シュム・ウキンの状況は厳しいものとなり、アッシュルバニパルの軍隊はシッパル、ボルシッパ、クタ(英語版)、そしてバビロン自体も包囲下に置いた。バビロンは最終的に前648年に陥落し、アッシュルバニパルによって略奪された。シャマシュ・シュム・ウキンは恐らく自殺に追い込まれた。 その長い治世を通じて、アッシュルバニパルはアッシリアのあらゆる敵国・競争相手に遠征を続けた。アッシュルバニパルの死後、彼の息子アッシュル・エティル・イラニとシン・シャル・イシュクンはしばらくの間、帝国の支配を維持し続けた。しかし彼らの治世の間に、アッシリアの属国の多くが独立を宣言する機会を得た。前627年から前612年にかけて、アッシリア帝国は実質的に崩壊し、主にメディアと新たに独立した新バビロニアが主導する連合によってアッシリアは本国まで押し込まれた。前612年、ニネヴェ自体が略奪され破壊された。最後の王アッシュル・ウバリト2世が前609年にハッラーンで破られ、アッシリアは滅亡した。
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