ウルクの王朝
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「ウルク (メソポタミア)」の記事における「ウルクの王朝」の解説
ウルクのエンシ ゲベル・エル=アラクのナイフ(英語版)に描かれた獣を従える王(英語版)[訳語疑問点]のモチーフ。この美術様式は初期のエジプトとメソポタミアの関係(英語版)を示し、古い時代にメソポタミアがエジプトに与えた影響と、ウルク期のメソポタミアの王像表現法を見て取ることができる。ルーブル美術館収蔵。 恐らくウルクのエンシの同様の図像。鍔のある帽子をかぶり、豊かな髭を蓄えている。ウルクから発掘された前3300年頃の遺物。 『シュメール王朝表』の記録には、神話上および歴史上の5つの王朝の王たちが記録されている。神話では、王権は最初天からエリドゥへと降り、ウルク期を終わらせた大洪水までの間に5つの都市の間を次々と遷っていった。洪水の後に、王権はキシュに遷り、最終的にウルクに王権が遷ったとされる。その伝説的な王たちは、現代ではウルク第1王朝としてまとめられている。『シュメール王朝』に記されるところによれば、ウルクの5つの「王朝」の王たちは以下のとおりである。 ウルク第1王朝 メスキアッガシェル:太陽神ウトゥの息子でありウルクの創建者。キシュ第1王朝から王権を受け継いだ。 エンメルカル ルガルバンダ ドゥムジ ギルガメシュ ウルヌンガル、ウドゥルカラマ、ラバシュム、エンヌンタラアナ、メシュ・ヘ、メレムアナ、ルガルキトゥン:これらの支配者についてはほとんどわかっていない。最後の支配者はウルのメスアンネパダによって支配権を奪われ、ウルク第1王朝は終焉を迎えた。 ウルク第2王朝 エンシャクシュアンナ:シュメールにおける王権を再確立した。しかし彼の死後王権はラガシュ王エンアンナトゥムへと移った。 ルガルキギンネドゥドゥ、アルガンデア、ルガルウレ:ラガシュ第1王朝の下でウルクのエンシ(ensi)を務めた。 ウルク第3王朝 ルガルザゲシ(前2296年-前2271年):元はウンマの王。彼はウルクを自らの新しい首都とし、全シュメールを征服した。 ウルク第4王朝 ウルニギン(Ur-ningin) ウルギギル(Ur-gigir) クダ プズル・イリ:アッカド帝国の下でウルクのエンシを務めた。 ウルク第5王朝 ウトゥ・ヘガル(前2119年-前2112年):ウルクのエンシ。後世の伝承では蛮族グティ人によるシュメール支配を打倒したとされる。 ウトゥヘガルの後、ウル第三王朝を築いたウルナンムがシュメールの覇権を握った。前21世紀末、または前20世紀初頭にウル第3王朝が崩壊した後の時代(イシン・ラルサ時代)、ウルクは再び独立した勢力となった。確実ではないが、この時代のウルクの支配者は次のような人物が知られている。 イクン・ピ・イシュタル(Ikūn-pî-Ištar)(在位:前1800年頃) シン・カシド(Sîn-kāšid) シン・イリーバム(Sîn-irībam):シン・カシドの息子 イルム・ガミル(Ilum-gāmil) シン・ガミル(Sîn-gāmil):イルム・ガミルの兄弟 エテイア(Etēia) アナム(Anam) イルネネ(ÌR-ne-ne) リム・アヌム(Rīm-Anum) ナッビ・イリシュ(Nabi-ilīšu) また、2009年にナラム・シンという名前の前19世紀のウルクの支配者の存在を証明する2つの碑文のコピーが発表された。 イルネネはラルサの王リム・シン1世によってその統治第14年(前1740年頃)に打ち破られた。
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