ウェスタン歌手として
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1935年(昭和10年)11月28日、当時日本領であった樺太(現在のロシア共和国サハリン)に生まれる。兄の正巳はのちの作曲家・北原じゅん(文れいじ)、作詞家・川内康範は叔父(叔母の元夫)にあたる。第二次世界大戦中に父が死去、引き揚げて室蘭市で育つ。 長じて上京し、横浜市中区の曙町に住む。ウィリー・ジェームズ(のちのウイリー沖山)とともにブルー・レンジャーズ(1956年結成)として活動していた瀬谷福太郎が、『NHKのど自慢』に出場してハンク・ウィリアムズの『ロング・ゴーン・ロンサム・ブルース』Long Gone Lonesome Blues を歌い、満点を獲得した菊地を発見、同バンドに加入させる。同時に、ウイリー沖山にヨーデルを師事、同時期の沖山の弟子には山下敬二郎がいた。同バンドでのヴォーカリストとしての活動と平行し、横須賀で流しのシンガーとしても活動する。 ウイリー沖山の独立後、同バンドは解散し、菊地はカントリー&ウェスタンの歌手となり、1958年(昭和33年)、東京・有楽町の日本劇場で行なわれた第1回「日劇ウエスタンカーニバル」にウエスタン・キャラバンメンバーとして出演する。 テイチクレコード(現在のテイチクエンタテインメント)と契約、1960年(昭和35年)に菊地正夫の名で、ザ・コースターズをバックに、シングル『ひとりぽっちで』でデビューする。B面の民謡ロック『スタコイ東京』が話題となり、『ダッキャダッキャ節』等の同様の楽曲を連打するが、さほど売れなかった。1962年(昭和37年)にリリースした、出生地樺太に思いを馳せる楽曲『ふるさとは宗谷の果てに』は、のちに西郷輝彦がカヴァーしてヒットした。1963年(昭和38年)、東芝レコード(のちの東芝EMI, 現在のEMIミュージック・ジャパン)に移籍、『アホカイ節』等、民謡ロックを歌う。
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