ウィンター・クォーター湾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 14:38 UTC 版)
「ディスカバリー遠征」の記事における「ウィンター・クォーター湾」の解説
ディスカバリーは恒久的な宿営地を探して西に進んだ。2月8日にマクマード・サウンドに入り、その日遅くにその南端近くに碇泊した。後にその場所をウィンター・クォーター湾(冬営)と名付けた。ウィルソンは「船にとって安全で、氷の圧力からは完璧な遮蔽となる冬季宿営所に導かれたというのは、極端な幸運に恵まれたことを皆が認識した」と記していた。しかしストーカー・ラシュリーは「陰鬱な場所」に見えると考えた。ハットポイントと名付けられた岩の多い半島で遠征用小屋の建設が始められた。スコットは、遠征隊は乗船したまま生活し働き続けるべきと判断しており、ディスカバリーが氷の海に閉ざされても、主小屋を倉庫と待避所として使わせるようにした。 隊の全体でスキーに熟練した者は居らず、バーナッチとアーミテージのみが犬ぞりの経験があった。その結果最初はこれらの技法をマスターしようと試みられたが、その後は奨励されなくなった。その代わりにスコットの好む人力による橇の引き摺りを補強することになった。3月11日、ケープ・クロージャーへの旅を試み、そこから戻ってきていた1隊が、吹雪の中で氷の斜面に立ち往生し、不慣れな条件の危険性が確認された。安全な場所を探しているときに、隊員の1人で熟練船員のジョージ・ビンスが崖の縁から滑落して死んだ。遺体は上がらなかった。ビンスの記念のために単純な文字を刻んだ十字架が立てられ、現在もハットポイント岬の上に立っている。 5月から8月が冬季であり、科学者達はその研究で忙しく、一方他所では装置や物資が次のシーズンのために準備された。余暇のために素人演劇が行われ、また講義の形態で教育活動もあった。シャクルトンが「サウス・ポーラー・タイムズ」という新聞を編集した。屋外の気晴らしもあった。氷の上でフットボールが行われ、定期的に磁気と気象の観測が続けられた。冬が終わると、橇の試し走りが再開され、計画されていた南行きのために装置と食料が前もって試された。南にはスコット、ウィルソン、シャクルトンが行くことになった。一方で、ロイズが指揮した隊がケープ・クロージャーに行き、そこのポストに伝言を残してきた。このときにコウテイペンギン生息地を発見した。アーミテージが指揮した別の隊は、西の山地を偵察し、10月に戻ってきたときは隊で初めて壊血病の兆候が出ていた。アーミテージは新鮮な肉を得るために動物を殺すことに対し、スコットが「感情的な反対」をしたことを責めた。その後遠征隊の食事が直ぐに改善され、トラブルはなくなった。
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