インド・パキスタンの分離独立とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > インド・パキスタンの分離独立の意味・解説 

インド・パキスタンの分離独立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:37 UTC 版)

ポロ作戦」の記事における「インド・パキスタンの分離独立」の解説

1947年8月15日イギリス植民地一つであるイギリス領インド独立正式に認めそれにともないインドとパキスタン分離独立した。インド・パキスタン分離独立際しイギリス統治下において存在した多数藩王国それぞれインドパキスタンどちらか帰属迫られており、この日までどちらに帰属する決めていた。 とはいえ帰属決めかねていた藩王国3つあった。1つ目は北西インドジャンムー・カシュミール藩王国2つ目はグジャラートジュナーガド藩王国3つ目はデカン地方ニザーム藩王国ハイダラーバード藩王国であった。これらの国は特徴があり、前者支配者ヒンドゥー教徒住民大部分ムスリム、後二者はその逆であったニザーム藩王国インド加わったとすればムスリムの、逆にパキスタン加わればヒンドゥー教徒怒りを買う可能性があるという、非常に難し立場にあった。 このハイダラーバード首都とするニザーム藩王国は、1724年ムガル帝国宰相カマルッディーン・ハーンによって建国されニザーム王国前身となった国家である。この国は1798年イギリス軍事保護条約締結したのちは藩王国として存続許されイギリス領インドの中では最大藩王国であったまた、国内ダイヤモンドや金、鉄、石炭を産出する多数鉱山有したため、極めて富裕な藩王国でもあった。さらに藩王ムスリム貴族国家土地40パーセント保有していた。 藩王であるウスマーン・アリー・ハーン自身イスラーム教徒であることから当初パキスタンへの帰属望んだが、領内にはヒンドゥー教徒が多いうえに内陸飛び地となるため、イギリスからはインドとパキスタンどちらにも属さない形で単独での独立宣言した藩王国軍事保護条約従属していたのは形の上ではイギリスであったため、イギリス独立に際してこれらの条約放棄したことにより、藩王国単独独立できるはずであった結局、このハイダラーバード問題独立後のインドそのまま持ち越されることとなった

※この「インド・パキスタンの分離独立」の解説は、「ポロ作戦」の解説の一部です。
「インド・パキスタンの分離独立」を含む「ポロ作戦」の記事については、「ポロ作戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「インド・パキスタンの分離独立」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「インド・パキスタンの分離独立」の関連用語

インド・パキスタンの分離独立のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



インド・パキスタンの分離独立のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのポロ作戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS