インド・パキスタンの分離独立
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「ポロ作戦」の記事における「インド・パキスタンの分離独立」の解説
1947年8月15日、イギリスは植民地の一つであるイギリス領インドの独立を正式に認め、それにともないインドとパキスタンは分離独立した。インド・パキスタン分離独立に際し、イギリス統治下において存在した多数の藩王国はそれぞれインドかパキスタンどちらかに帰属を迫られており、この日までどちらに帰属するか決めていた。 とはいえ、帰属を決めかねていた藩王国が3つあった。1つ目は北西インドのジャンムー・カシュミール藩王国、2つ目はグジャラートのジュナーガド藩王国、3つ目はデカン地方のニザーム藩王国(ハイダラーバード藩王国)であった。これらの国は特徴があり、前者は支配者がヒンドゥー教徒、住民の大部分がムスリム、後二者はその逆であった。ニザーム藩王国はインドに加わったとすればムスリムの、逆にパキスタンに加わればヒンドゥー教徒の怒りを買う可能性があるという、非常に難しい立場にあった。 このハイダラーバードを首都とするニザーム藩王国は、1724年にムガル帝国の宰相カマルッディーン・ハーンによって建国されたニザーム王国が前身となった国家である。この国は1798年にイギリスと軍事保護条約を締結したのちは藩王国として存続を許され、イギリス領インドの中では最大の藩王国であった。また、国内にダイヤモンドや金、銅、鉄、石炭を産出する多数の鉱山を有したため、極めて富裕な藩王国でもあった。さらに藩王とムスリムの貴族は国家の土地の40パーセントを保有していた。 藩王であるウスマーン・アリー・ハーンは自身がイスラーム教徒であることから当初はパキスタンへの帰属を望んだが、領内にはヒンドゥー教徒が多いうえに内陸の飛び地となるため、イギリスからはインドとパキスタンどちらにも属さない形で単独での独立を宣言した。藩王国が軍事保護条約で従属していたのは形の上ではイギリスであったため、イギリスが独立に際してこれらの条約を放棄したことにより、藩王国は単独で独立できるはずであった。 結局、このハイダラーバード問題は独立後のインドにそのまま持ち越されることとなった。
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