イスラム教伝来とスルターン諸王朝の興隆とは? わかりやすく解説

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イスラム教伝来とスルターン諸王朝の興隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 07:38 UTC 版)

フィリピンのイスラム教」の記事における「イスラム教伝来とスルターン諸王朝の興隆」の解説

マフドゥム・カリムが1380年アラブ系商人として初めスールー諸島ホロ島足を踏み入れ交易通じてイスラム教広めることとなる。1390年にはミナンカバウ人のラジャ・バギンダ王子とその従者説教を行う。 シェイク・カリマル・マクドゥムモスクは、14世紀ミンダナオ島シムヌル建立され国内初のモスクであったその後マレーシアインドネシア訪れたアラブ系宣教者が定住することで、イスラム教が一層広まってゆく。初のイスラム王国であるスールー王国誕生したのはこの時期のことである。その他マギンダナオ王国、ラナオ王国イスラム教国として殷賑極めたミゲル・ロペス・デ・レガスピ率いスペイン艦隊がマイニラ王国姿を現すと、ラージャ・スレイマン3世謁見を果たす。次世紀までにはコンキスタドール南端部のスールー諸島上陸現地民は元々アニミズム奉じていたが、これを機にイスラム教への改宗が進む。15世紀までには北部ルソン島南部ミンダナオ島半分ボルネオ島歴代スルターン支配下入りミンダナオ島民のほとんどがイスラム教改宗することとなる。 しかしながらヴィサヤ諸島ヒンドゥー教仏教が非常に強くイスラム教に対して少なからぬ抵抗示したミンダナオ地域出身ムスリム海賊海域荒らし回ったことにより、経済的政治的危機もたらされたためである。これらの頻繁な攻撃通して海賊略奪行えない程ヴィサヤ諸島民の結束力固くなってゆく。 1485年から1521年までスルターンボルキア統治行っている間、ブルネイ王国マニラ天然港と見なしたため、周辺部攻撃し、コタセルドン王国独自に建国することで、中国貿易押さえていたトンド王国一部領有する動き見せる。今やマニラ支配下に置き、ブルネイ王国衛星国にしようとしたことに対す苦肉の策であった新王朝ではイスラム教受容したルマド族の指導者がラージャ・スレイマン1世就任イスラム教ホロミンダナオ両島の他、マレーシアインドネシア出身ムスリム商人到来により益々浸透遂げた

※この「イスラム教伝来とスルターン諸王朝の興隆」の解説は、「フィリピンのイスラム教」の解説の一部です。
「イスラム教伝来とスルターン諸王朝の興隆」を含む「フィリピンのイスラム教」の記事については、「フィリピンのイスラム教」の概要を参照ください。

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