イスラム教と十字軍の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 03:29 UTC 版)
「ベツレヘム」の記事における「イスラム教と十字軍の時代」の解説
637年、エルサレムが占領された直後、ウマル・イブン・ハッターブによりキリスト教徒が聖誕教会を使用することを認められた。彼の名を冠したオマールのモスク(英語版)(ウマルのモスク)は彼が祈りを捧げた場所である教会の隣に、後の時代(1860年)に建設された。ベツレヘムはその後8世紀中はウマイヤ朝が支配し、9世紀にはアッバース朝が支配した。ペルシャ人の地理学者は9世紀中ごろに、よく保護され非常に崇敬されている教会があったと記している。985年、アラビア人地理学者アル・ムカッダーシーはベツレヘムを訪れ、その教会を「コンスタンティヌスのバシリカ、国中探してもこれほどのものは見つからない。」と記した。1009年、ファーティマ朝第6代カリフ、ハーキムは聖誕教会の破壊を命じたが地元のムスリムにより破壊は免れた。なぜなら彼らは南の翼廊で拝礼することが許されていたからである。 1099年、ベツレヘムは十字軍によって占領された。彼らは要塞化し聖誕教会の北側に新しく修道院を建てた。東方正教会の神父はその座から追い出され、代わりにカトリックの神父が納まった。その時点まではこの地域はエルサレム総主教庁(東方正教会)の管轄であった。1100年のクリスマス、ボードゥアン1世はベツレヘムでエルサレム王に戴冠した。また、同年にベツレヘムはカトリックの管轄となった。 1187年、アイユーブ朝のサラディンは十字軍の手からベツレヘムを取り戻した。カトリックの神父たちは退去させられた。1192年にはサラディンは2人の司祭と2人の助祭が戻ることを認めた。しかし、ヨーロッパの巡礼者は急激に減少し、彼らとの商取引が減ったことはベツレヘムにとって悩みの種となった。 ヌヴェール伯ギヨーム4世はベツレヘムの司教に、ムスリムの手によって陥落した場合はクラムシーの小さな町に招待することを約束し、1223年に司教はクラムシーに住み着いた。クラムシーには形だけの(in partibus infidelium)ベツレヘム司教座が1789年のフランス革命まで約600年間存在し続けた。 ベツレヘムは1229年にエルサレム、ナザレ、サイダとともにアイユーブ朝のスルタン、アル=カーミルと神聖ローマ帝国のフリードリヒ2世の間で取り交わされた条約により、10年間の休戦を条件としてエルサレム王国に割譲された。条約は1239年に失効しベツレヘムは1244にムスリムによって奪還された。 1250年にバイバルスの下でマムルークの権力が強まり、キリスト教に対する寛容さは失われていった。神父たちは町を去り、1263年に都市の壁は破壊された。次の世紀にはカトリックの神父はベツレヘムに戻り、聖誕教会に隣接する修道院でその地位に就いた。エルサレム総主教庁(東方正教会)は聖堂の管理権を与えられ、ミルク・グロットをカトリックとアルメニア正教で共同管理することになった。
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