イスラエル軍の計画と、当初の機動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:51 UTC 版)
「中国農場の戦い」の記事における「イスラエル軍の計画と、当初の機動」の解説
10月14日の遅くにバーレブ(英語版)から命令を受けた後、シャロンは作戦準備のため自らの司令部に向かった。配下の師団はツビア・ラビブ(ヘブライ語版)の旅団、アムノン・レシェフ(英語版)大佐の第14機甲旅団、そしてハイム・エレツ(ヘブライ語版)大佐が指揮する「ハイム」旅団を組み込んでいた。ダニー・マット(英語版)大佐が指揮する第243空挺旅団が当師団への配属となっていた。 ラビブの旅団が東から攻撃し、エジプト軍の注意をデバーソワーより逸らすという計画を、シャロンは立てた。エレツは組み立て済みの移動橋をデバーソワーの渡河地点に輸送する任務を負い、また配下の1個戦車大隊は空挺部隊に同道することとなった。レシェフ大佐は他の何にもまして重大な任務を託された。ゆえに彼の旅団は、4個機甲大隊と3個機械化歩兵大隊、加えてヤオブ・ブロム中佐が指揮する師団の偵察大隊を組み込んで、大幅に増強された。彼の旅団は10月15日の6時にアカビシュ道路の南で方向転換の機動を行い、砂丘を突っ切ってラケカン要塞へ達し、その後に北へ向かいマツメド要塞を占拠することになっていた。それからレシェフの旅団は2手に分かれ、アカビシュとティルツールの各道路を掃討し、中国農場を確保して、一方で渡河地点を占拠しマットの旅団を待つというのであった。追加の戦車中隊と機械化大隊を含んだマットの空挺旅団は、アカビシュ沿いに南西へと移動してマツメド要塞へ到達する。そこからさらに「置き場」へ向かい、23時にゴム製のボートと戦車用の筏を利用して運河を渡るということであった。 ダニー・マットの旅団は10月15日の16時30分にタサへの移動を開始し、次いでアカビシュにおいて東方に進路を向けた。道路は大いに混雑しており、旅団の進行を非常に遅々たるものとした。真夜中の少し過ぎに、旅団はアカビシュを逸れて西方の、長さで700メートル、幅で150メートルあり、防御用の砂壁で囲まれている地域であった「置き場」へと進んだ。この地は当戦争のかなり以前に設けられていた。 レシェフは配下の旅団を計画通りに移動させ、あらかじめ発見されていた間隙へ妨害もなく入り込んだ。偵察と空挺の合同部隊を運河に残しておいて、計画の渡河地点の側面を確保し、また背後からアカビシュとティルツールの各道路を、後続の架橋装備のために空けるべく、北と西へ配下の戦車群を派遣した。彼はラケカンとマツメドの要塞を、抵抗もなく占拠した。レシェフはシャロンへ、両要塞が制圧下にあり、アカビシュは空いていると知らせた。次にはシャロンが南部方面軍司令部へこのような成功を知らせて、作戦がかくも順調に滑り出したことを嬉しがるイスラエル軍指揮官連の間に、歓喜の波を引き起こした。
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