イスラエル軍人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 16:18 UTC 版)
「メイール・ダガン」の記事における「イスラエル軍人として」の解説
1963年にイスラエル国防軍に入隊したダガンはその後イスラエルの特殊部隊サイェレット・マトカルに志願する。ダガンは射撃の名手であったものの入隊試験には失敗し、第35"ツァンハニム"空挺旅団の隊員として勤務した。1967年には第三次中東戦争に参加。戦闘中に地雷によって足に障害を負うが、このことがきっかけで看護師であった妻と出会い結婚。3子を儲ける。 1970年代初頭にはガザ地区に派遣される。第三次中東戦争でイスラエルが占領したガザではテロが日常茶飯事となっており、1971年1月2日に児童が殺害された事件をきっかけに、アリエル・シャロン(のちの首相)は旧友と若い優秀な兵士を集めて新たな部隊を編成した。ダガンは新たな部隊の中に対テロ部隊「リモン(英語版)」(後の「ドゥヴデヴァン(英語版)」、「シムション(英語版)」部隊)を創設することを提案し、自ら隊長に就任する。リモンの隊員はアラブ人に変装してガザ地区やヨルダン川西岸地区に潜入して情報収集を行い(ミスタアラビム(英語版) 参照)、数多くのテロリストを殺害して恐れられた。メイール・ダガン自身も作戦参加しており、1971年にテロリストを武装解除した際の功績として"勇気記章"を授与されている。 また、レバノン内戦に伴って1978年に行なわれたリタニ作戦(英語版) に伴ってレバノンに入り、南レバノン軍の創設者の1人となる。1982年に発生したレバノン戦争(英語版)の際には第188"バラク"機甲旅団の指揮官として再びレバノンに入り、まもなく警戒区域の司令官に就任すると、こちらでもゲリラ戦士として活動して周囲から「闇世界の帝王」と恐れられた。 1991年に当時の参謀総長エフード・バラック(のちの首相)のインティファーダ問題担当補佐官となると、バラックとともにヨルダン川西岸地区を乗用車で走り回って偵察活動を行った。1992年には作戦部長補佐官に任命され、50歳になった1995年に少将として退役する。
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