イギリス人の定住初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 05:51 UTC 版)
「バハマの歴史」の記事における「イギリス人の定住初期」の解説
歴史家は長年にわたってバハマが17世紀まで植民化されなかったと信じてきたが、近年の研究ではスペイン、フランス、イングランド、オランダが植民を試みた可能性が出てきている。フランスは1565年にアバコ諸島(英語版)で入植を試み、1625年に再度試みた。1648年にはウィリアム・セイル(英語版)率いる、「エルーセラ諸島のプランテーションに向かう冒険者の会社」(The Company of Adventurers for the Plantation of the Islands of Eleutheria)と呼ばれるバミューダ諸島からの植民者がバハマまで航海して植民地を創設した。彼らは清教徒で共和主義者(英語版)であり、バミューダが人口過多になってきたことと、バハマでは宗教と政治の自由が与えられる上に経済的機会もあったため、バハマに移ってきたのであった。この会社は船2隻あったが、大きい方のウィリアムは北端のエルーセラ島の礁で難破、全ての物資を失った。後にヨーロッパ人、奴隷、バミューダからの元アフリカ奴隷が追加で派遣され、バージニア植民地とニューイングランド植民地(英語版)からの救援物資も届いたが、エルーセラ植民地の経営はやせた土地、植民者の間の争い、スペインとの紛争により長年不振であった。1650年代中期には多くの定住者がバミューダに戻り、残りの定住者はハーバー島(英語版)とエルーセラ島の北端にあるセント・ジョージ・キー(英語版)で社会を形成、1670年には約20世帯がエルーセラに居住した。 1666年、バミューダからの植民者がニュー・プロビデンス島に定住した。ニュー・プロビデンス島はすぐにバハマ諸島の人口と貿易の中心地に発展、1670年には人口が約500人になった。エルーセラの住民が主に農民だったのに対し、ニュー・プロビデンス島の住民は(主にスペインの)難破船のサルベージ、製塩、魚、亀、巻貝、龍涎香捕りで生活した。バミューダの農民もニュー・プロビデンス島にやってきて、肥えた土地を見つけた。エルーセル植民地もニュー・プロビデンスでの定住者もイングランド法における地位を与えられておらず、1670年にはカロライナ植民地領主がバハマ諸島の特許状を得たが、領主から派遣された総督は独立性の強いニュー・プロビデンス住民に対する権威を樹立することに苦労した。 最初期の定住者はバミューダに住んでいた時代とほぼ同様に生活したが、バハマはヨーロッパとカリブ海を繋ぐ航路に近かったため、バハマ諸島で船が難破することも多く、最も実入りの多い職は難破船の分解業であった。
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