イギリスでの開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 16:31 UTC 版)
「テラー・ウラム型」の記事における「イギリスでの開発」の解説
イギリスでの水爆開発は、1954年にオルダーマストンに設立された核兵器研究機関(Atomic Weapons Research Establishment, AWRE)で責任者である“ウィリアム・ペニー”の下で始まった。当時のイギリスが持っていた熱核融合爆弾に関する知識はごく初歩的なものであったが、米国は“1946年版核エネルギー法”に基づき核に関する知識を提供しなかった。しかしながらイギリスは、米国の実施したキャッスル作戦に参加することを許可され、キノコ雲の中に標本採取用の航空機を飛ばし、放射圧縮法によるセカンダリーの圧縮に関する直接的な証拠を手に入れた。 これらの困難のため、1955年にイギリスの首相であったアンソニー・イーデンは、もしアルダーマストンの科学者が核融合爆弾の開発を失敗したり、開発が大幅に遅れた際には、代わりに大出力の核分裂爆弾を使用するという機密計画に同意した。 1957年にはグラップル作戦が実施された。最初の実験である“グリーン・グラナイト実験”は核融合爆弾の試作品であったが、米国やソ連と比べて予想された核出力を得ることが出来ず、結果として得られた核出力は約300キロトンであった。第2の実験である“オレンジ・ヘラルド実験”では、改良された核分裂爆弾が使用され、核出力700キロトンを得た(これは核分裂爆発の出力として史上最大である)。当時ほとんどの人(爆弾を投下した飛行機のパイロットを含む)は、これは核融合爆弾だと考えていた。この爆弾は、1958年に実戦配備された。第2の核融合爆弾の試作品は、第3の実験である“パープル・グラナイト実験”で使用されたが、この核出力は約150キロトンに過ぎなかった。 グラップル作戦の第2シリーズは、1957年9月に行われた。最初の実験は新しいシンプルな設計で、より強力な起爆用の核を持つ2段階式熱核爆弾が使用された。これはグラップル作戦“ラウンドC”として11月8日に実施され、核出力1.8メガトンを記録した。1958年4月28日には、イギリスが開発した最も強力な爆弾が空中投下で実験され、3メガトンの核出力を記録した。1958年9月の2日と11日には最後の空中投下実験が行われ、各々およそ1メガトンの核出力を記録した。 米国の立会人は、これらの実験に招待されていた。これらメガトン級核実験の成功の後に(そしてテラー・ウラム型の機密を実用化できる知識として証明して見せたことで)、米国は核兵器に関する技術をイギリスに提供することに同意し、1958年米国-イギリス相互防衛合意を引き出した。両者の技術交流を継続することに代えて、イギリスは米国のW28核弾頭の設計資料を入手することが許可され、そのコピー品が製造された。 その他の国でのテラー・ウラム型に関する開発の詳細は、よく分かっていない。
※この「イギリスでの開発」の解説は、「テラー・ウラム型」の解説の一部です。
「イギリスでの開発」を含む「テラー・ウラム型」の記事については、「テラー・ウラム型」の概要を参照ください。
- イギリスでの開発のページへのリンク