アントニウスボードウィンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > アントニウスボードウィンの意味・解説 

アントニウス・ボードウィン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/14 00:12 UTC 版)

アントニウス・ボードウィン

アントニウス・フランシスクス・ボードウィン[1](Anthonius Franciscus Bauduin、1820年6月20日 - 1885年6月7日)は、オランダ出身の軍医。父はフランシスクス・ドミニクス・アンドレアス・ボードウィン、母はマリア・ヤコバ・マション。弟に駐日オランダ領事を務めたアルベルトゥス・ヨハネス・ボードウィン(アルベルト・ボードイン)がいる[2][3][4]

生涯

1864年のボードウィンと医学生

1820年ドルトレヒトフランス系の家庭に生まれる[5]

ユトレヒト陸軍軍医学校とユトレヒト大学医学部で医学を学び、卒業後はオランダ陸軍に入隊し、1845年からはユトレヒト陸軍軍医学校で教官を務める。

1862年文久2年)、先に日本出島に滞在していた弟の働きかけにより、江戸幕府の招きを受けて来日。ポンペの後任として長崎養生所の教頭となる。その間、江戸、大阪、長崎で蘭医学を広め、また養生所の基礎科学教育の充実に努める。そして幕府に医学・理学学校の建設を呼びかけ、その準備のために1866年慶応2年)に教頭を離任し、緒方惟準ら留学生を伴って帰国したが、この話は大政奉還で白紙に戻った為、1867年(慶応3年)に再来日し、新政府に同内容の呼びかけを行う。1870年より大阪府仮学校大阪陸軍病院や、大学東校で教鞭をとり帰国。1873年オランダ陸軍軍医に復職。1884年に退役し、ハーグ1885年に病没した。

1880年(明治13年)、勲四等。

活動

養生所、医学校教頭としてオランダ医学の普及に努めたほか、本国からクーンラート・ハラタマを招聘するなどして物理学化学の日本の教育制度の充実を図った。また、上野に病院を立てる計画が持ち上がったときに、上野の自然が失われることを危惧して一帯を公園として指定することを提言した(現在の上野恩賜公園)。上野公園に業績を顕彰する銅像「ボードワン博士像」がある[6]

特に眼科に優れており、日本に初めて検眼鏡を導入した。なお、アントニウスが日本に持ってきた健胃剤処方が日本人に伝播され、独自の改良を経たものとして太田胃散と守田宝丹(守田治兵衛商店)[7]がある。いずれもその後品質改良や薬価改定などによって形状・成分の変更などが行なわれたが現在に至るまで市販されている。

アマチュアの写真家でもあり、多くの写真を残している。

ボードインコレクション

アントニウス・ボードインは、オランダ通商会社の代理人として先に出島に滞在していた弟のアルベルト・ボードイン(1829 - 1890)と協力して、風景や人物を撮影するとともに、フェリーチェ・ベアトを中心に職業写真家が撮影した写真も収集した。彼らが撮影および収集した日本の写真は、美しい装幀が施されたアルバムに収められ、オランダに持ち帰られた。それから約140年後の2007年、その主要部分(アルバム4冊等)が、ボードインの子孫から長崎大学に譲渡され、ボードインコレクションとして長崎大学附属図書館に収蔵されている[4]

脚注

  1. ^ ボードワン、ボードイン、ボードウァンとも。
  2. ^ Albertus Johannes Bauduin
  3. ^ Bauduin, Albertus Johannes 1829-1890 - WorldCat Identities
  4. ^ a b 長崎歴史文化博物館 『幕末長崎古写真館 〜ホードインコレクションから〜』
  5. ^ 弟アルベルトゥスの回想『オランダ領事の幕末維新』によると、アントニウスの先祖は母国フランスの迫害を受けて、オランダのマーストリヒトに移住したユグノー派カルヴァン派)の末裔だと記されている。
  6. ^ 上野恩賜公園 みどころ”. 東京都建設局. 2016年7月25日閲覧。
  7. ^ 江戸落語の演目「なめる」。落ちにある「おい、宝丹をなめるんだ」は上記の守田宝丹製健胃剤である。

参考文献

関連文献

関連項目

外部リンク


アントニウス・ボードウィン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:56 UTC 版)

JIN-仁-」の記事における「アントニウス・ボードウィン」の解説

オランダ人医師長崎幕府医学校精得館教授務める。専門眼科当初は仁に対し懐疑的だったが、仁の医術見て態度転換、仁の情報世界向けて発信した

※この「アントニウス・ボードウィン」の解説は、「JIN-仁-」の解説の一部です。
「アントニウス・ボードウィン」を含む「JIN-仁-」の記事については、「JIN-仁-」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「アントニウスボードウィン」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

アントニウスボードウィンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アントニウスボードウィンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアントニウス・ボードウィン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、WikipediaのJIN-仁- (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS