アラビア石油の創立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 01:51 UTC 版)
「山下太郎 (アラビア石油)」の記事における「アラビア石油の創立」の解説
戦後は日本の復興のために石油資源の獲得に奔走、昭和31年(1956年)、日本輸出石油株式会社を創立し、翌1957年にペルシャ湾海底油田の開発利権を獲得して1958年「アラビア石油株式会社」を創立した。山下は、産業の根幹をなす石油が100%アメリカ合衆国の供給と統制に依存している現実を危惧しており、日本国政府・財界等の要路をまわり、経済発展のため日本が自前で確保するよう説いて回ったといわれている。世界の予想に反して、サウジアラビア、クウェートの両国から採掘の利権を獲得したが、とくにクウェートが数多くのライバルの中から日本に権利を与えたのは、山下の努力・人柄もさることながら、欧米諸国に対するアラブ人たちの民族感情が左右していたともみられている。 山下が苦心して採掘権を得て設立したアラビア石油は1960年1月31日、1回目のボーリングで大規模海底油田(日産1,000kl)を発見した。これが、カフジ油田であり、世界第1級の大噴油について「アラビア太郎、100万ドルの笑顔」と世界中で報道された。以降も順調に石油メジャーに拠らない「日の丸油田」と呼ばれる油田の発見と採掘・輸出を進めた。 山下太郎は心筋梗塞のため昭和42年(1967年)、78歳にて死去した。周囲にのこした言葉は「俺はまだやることがある」であったという。故郷の横手市大森町大慈寺に墓がある。死後、民間人としてはめずらしい従三位勲一等瑞宝章が追贈された。
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