アメリカ統治下にあった沖縄県
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 09:19 UTC 版)
「陪審制」の記事における「アメリカ統治下にあった沖縄県」の解説
当時の沖縄県では、高等弁務官を長とするアメリカ民政府と、その下に置かれた琉球政府があった。1963年3月8日、「アメリカ民政府刑事裁判所」(1958年7月21日布告第8号)及び「刑法並びに訴訟手続法典」(1955年3月16日布令第144号)が改正され、アメリカ民政府裁判所における刑事裁判について、大陪審と小陪審が導入された。また、1964年5月21日、「アメリカ民政府民事裁判所」(1958年7月21日布告第9号)が改正され、アメリカ民政府裁判所における民事裁判について陪審制が導入された。以後、刑事・民事の陪審制が1972年の施政権返還まで行われた。 これは、在住のアメリカ人やアメリカ人弁護士からの陪審裁判への要求があったためであるとされる。もっとも、純粋にアメリカ人だけが関与する制度ではなく、(1) 陪審員の資格としてはアメリカ国籍を要求せず、単に「三月間琉球列島内に居住した者」とされていたことから、琉球住民を含め居住者の全てが陪審員として参加することができた(ただし英語の読み書きのできない者は除かれた)。また、(2) 刑事・民事事件ともに、当事者がアメリカ人の事件に限定せず、「高等弁務官が合衆国の安全、財産または利害に影響を及ぼすと認める(特に)重大な事件」についてはアメリカ民政府裁判所の裁判権が及んでいたことから、居住の者が当事者の事件も陪審による審理を受けることができた。 制度の概要は次のとおりである。 大陪審 アメリカ民政府高等裁判所において、重罪(死刑又は1年を超える懲役に当たる罪)については大陪審による正式起訴(インダイトメント)を受ける権利が保障された。被疑者が権利を放棄した場合は、検察官による簡易起訴が行われた。大陪審は6名以上9名以下で構成された。 刑事(小)陪審 アメリカ民政府高等裁判所において、微罪以外のすべての犯罪について小陪審による裁判を受ける権利が保障された。被告人が罪状認否手続で無罪答弁等をした場合は原則として陪審審理が行われるが、被告人が権利を放棄した場合は裁判官による審理が行われた。刑事・民事とも小陪審は12名で構成された(これに加え予備員も選任された)。 評決は有罪か否かの一般評決であり、全員一致であることを要した。無罪評決に対しては二重の危険の禁止から上訴できず、有罪評決に対しては、手続的瑕疵や法律違反についての上訴が許されていた。 民事陪審 民事陪審は、アメリカ民政府民事裁判所において行われた。 この制度により1963年から1972年までの間に行われた陪審裁判は、刑事・民事合わせておよそ10件程度と推定されている(この間の全事件数は103件(刑事89件、民事14件)であった)。
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