アメデオ・アボガドロとは? わかりやすく解説

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アボガドロ【Amedeo Avogadro】

読み方:あぼがどろ

[1776〜1856イタリア物理学者化学者アボガドロの法則発表


アメデオ・アヴォガドロ

(アメデオ・アボガドロ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/16 04:32 UTC 版)

Amedeo Avogadro
アメデオ・アヴォガドロ
生誕 Lorenzo Romano Amedeo Carlo Avogadro di Quaregna e di Cerreto
(1776-08-09) 1776年8月9日
サルデーニャ王国 トリノ
死没 (1856-07-09) 1856年7月9日(79歳没)
サルデーニャ王国 トリノ
研究分野 化学
物理学
研究機関 トリノ大学
主な業績 アボガドロの法則
アボガドロ定数の由来
影響を
受けた人物
ジョン・ドルトン
ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック
影響を
与えた人物
スタニズラオ・カニッツァーロ
署名
プロジェクト:人物伝
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Amedeo Avogadro

ロレンツォ・ロマーノ・アマデオ・カルロ・アヴォガドロ: Lorenzo Romano Amedeo Carlo Avogadro1776年8月9日 - 1856年7月9日[1])は、サルデーニャ王国物理学者化学者分子研究に貢献し、1811年に発見した同圧力、同温度、同体積の全ての種類の気体には同じ数の分子が含まれるアボガドロの法則で名高い。

サルデーニャ王国(現・イタリアトリノ出身。1809年ヴェルチェッリ王立大学の物理学教授を務め[2][3]1820年にはトリノ大学理論物理学の初代教授を務めた[2][3][4]

生涯

Mémoire sur les chaleurs spécifiques

1776年8月9日、サルデーニャ王国(現:イタリア)ピエモンテ州トリノにアンナ(Anna Vercellone)、サルデーニャ王国の要職の法律家貴族フィリッポ・アヴォガドロ(Filippo Avogadro)の元に生まれる。大学では法学哲学を修め、1796年教会法に関する論文学位を修得し、卒業した。その後は数年間、父と同じく法律家、弁護士となり法律事務所を開いた。

1800年頃、数学と物理学に関心を示して研究を始め、1803年にはトリノ科学アカデミーイタリア語版電気工学に関する初めての論文を提出した。

1809年にヴェルチェッリ王立大学の物理学教授を務め、大学でアヴォガドロは精力的に研究を進め、1811年に『物質の基本粒子の相対的質量とこれらの化合比率を決定する一つの方法』という論文をフランス科学雑誌コント・ランデュフランス語版』に後に有名となる同圧力、同温度、同体積の全ての種類の気体には同じ数の分子が含まれるアボガドロの法則を発表した(但し「アボガドロの法則」と名付けられたのはアヴォガドロの死後のことであって、当時海外で全く無名だったアヴォガドロの論文は難解であったため学会の相手にされなかった)。

1811年から1821年にかけて全4巻からなる『可秤物質の物理学』を著す。

サルデーニャ王国の国王であるヴィットーリオ・エマヌエーレ1世は、1820年にイタリア初の数理物理学教室をトリノ大学に設立し、初代教授にアヴォガドロが就任した。トリノ大学では電気毛管現象比熱熱膨張の研究を進めたが、ヴィットーリオの退位直後の1822年に政治的問題で教室は閉鎖されることとなり、アヴォガドロは極僅かの年金を受け取った後、再び弁護士事務所を開いて科学実験を進める傍ら弁護士の職業に戻った。

1834年王政復古で数理物理学教室が再開されると再び教授となり、1850年まで留まった。研究内容は気象学計測学統計学度量衡であった。なお、1848年には公教育会議の議員に選出された。

1856年7月9日、トリノで没した。

アヴォガドロは生涯、ほとんど国外では無名に等しくアヴォガドロの業績が再評価されることになるのは死後から4年後の1860年のことであり、アヴォガドロの死の直後に著された1858年、イタリアの化学者、政治家であるスタニズラオ・カニッツァーロの論文『ジェノヴァ大学に於ける化学理論講義概要』、1860年に開催された原子量と分子量の基準がテーマとなっていたカールスルーエ国際化学者会議でのカニッツァーロの発表を受けて、初めてアヴォガドロが再評価された。

アボガドロの法則

「同温同圧のもとでは、全ての気体は同じ体積中に同数の分子を含む」というのがアボガドロの法則の基本的な内容である。1811年当時、物質が原子から構成されると主張する原子論はほとんどの化学者に共通の認識となっていた。1803年にイギリスの化学者、物理学者のジョン・ドルトン原子量を初めて公開しており、近代的原子論が確立された直後であった。ドルトンは一種類の元素からなる気体は原子から構成されると信じていた。

ドルトンの主張はさまざまな実験事実を説明できたが、説明できない現象が残っていた。それは気体同士の反応であった。例えば水素2容積と酸素1容積を化合させると必ず水蒸気2容積となる(反応前後の温度が等しい場合)。ドルトンの主張に従って、この反応を現代風に記述すると、以下のようになる。

アヴォガドロによる水素と酸素の反応モデル

アヴォガドロの主張は二つの部分からなる。まず、同単位の気体は同じ体積を占めること、次に、気体は原子ではなく、同種の原子が2つ結合した分子からなるというものである。以上から、反応式は以下のように変化する(図参照)。

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