アマーストの政策
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「ポンティアック戦争」の記事における「アマーストの政策」の解説
イギリスの北アメリカにおける総指揮官アマースト将軍はインディアンに対する政策管理について、軍事的なことも毛皮の交易に関する規制にも全面的に関わっていた。アマーストは、フランスが舞台から消えればインディアンはイギリスの支配を認めるしかないと信じていた。アマーストはさらにインディアンはイギリス軍に対して考慮すべき反抗を企てることはできないと考えており、それ故に北アメリカの彼の手勢8,000名のうち、わずか500名程をこの戦争が起こった地域に駐屯させているに過ぎなかった。アマーストとデトロイト砦の指揮官ヘンリー・グラドウィンのような士官達はインディアンに対する軽蔑を隠しもしなかった。蜂起に加わったインディアン部族は、「グラドウィンは自分達を奴隷か犬よりもひどく扱っている」としばしば苦情を言っていた。 アマーストが1761年に「インディアンに与えられるはずのものを削り取る」という決定を下した時に、インディアンの憤慨がさらに募ることになった。「与えられるはずの物」とは、フランスと「上の国」インディアン部族との間の関係には切り離せないものであった。インディアンの慣習で重要な象徴的意味を持つものに従って、フランスは村の酋長に銃やナイフ、タバコ、衣類などの贈り物をし、酋長達はその贈り物を部族の者に分け与えた。このやり方で村の酋長は部族の中で権威を保ち、フランスとの同盟を維持し続けることができたと白人は思っていた。しかし現実には酋長は「世話役」であって、「権威を保つ」とかいう類の存在ではない。 アマーストはこのやり方が一種の賄賂であり、フランスとの戦争後に経費を切り詰めるよう圧力を受けていたために最早それは必要ないと考えた。「すべてのものを共有する」というインディアンの文化において、「気前の良さ」は何にも勝る美徳であった。贈り物をケチり出した白人の方針変更を、インディアンたちは侮辱とみなし、イギリスがインディアン達を同盟者と見ているのではなく、征服された民と見下している兆候と捉えた。 アマーストはまた、交易業者がインディアン達に売ることのできる銃弾や火薬の量を制限し始めた。フランスは常にこれらの物資を使えるようにしていたのに対し、アマーストは特に同盟者だったチェロキー族の1761年の反乱以降は、インディアン達を信用しなかった。チェロキー族の反乱は火薬が欠乏したために失敗したので、アマーストは火薬を分配する量を抑えておけば将来の反抗を防げるものと期待していた。インディアンの男達は家族のために食料を確保する必要があり、また毛皮交易のために毛皮を必要としていたので弾薬は必需品であり、インディアン達にさらに憤懣と困窮をうむことになった。多くのインディアン達は、イギリス軍がインディアン達に戦争を仕掛ける前に武装解除しているのだと信じ始めた。インディアン部局の監察官であったウィリアム・ジョンソン卿がアマーストに対して、贈り物や火薬を削ることの危険性を警告しようとしたが、徒労に終わった。
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