アフマド・ブン・トゥールーン
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「トゥールーン朝」の記事における「アフマド・ブン・トゥールーン」の解説
詳細は「アフマド・ブン・トゥールーン」を参照 アフマド・ブン・トゥールーンは、始めバグダードで組織されたほとんど中央アジアの「トゥルク」人からなる警備兵の一員であった。彼の父トゥールーンはイランで権力を持っていたサーマーン家からカリフへの貢物として贈られた奴隷(グラーム)軍人であった。なお、ここで言う「トゥルク(Turk)」は言語系統の分類による現代の学術用語であるテュルク人を指すものではない。当時のアラビア語文書において「トゥルク」という言葉は使用言語に関わらず中央アジア的な諸部族民を指して使用されていたと見られる。 後に彼らは、アル=ムウタスィムによってサマッラー(英語版)が御所として整備されると、そこに落ち着いた。868/254年、アフマド・ブン・トゥールーンはカリフ、アル=ムウタッズの代理人であるバーヤクバーク(Bāyakbāk、870/256死去)によって総督としてエジプトに派遣された。アフマド・ブン・トゥールーンは独立したエジプト軍を組織し、エジプトとシリアの財政管理を引き継いだことで、速やかに金融・軍事におけるエジプト州における存在感を確立した。877年、貢物が不十分であったことから、アッバース朝の軍隊がアフマド・ブン・トゥールーン討伐に派遣された。彼はしかし、権力を維持し、その後シリアを奪取した。 彼は10年以上にわたる治世を経て、よく訓練された軍隊、堅牢な経済、国務を監督する経験豊かな官僚を残し、後継者に息子のフマーラワイフ(Ḵh̲umārawayh)を指名した。 完全な自治権の下、税収をバグダードのカリフに送り届ける必要がもはやなくなり、それを灌漑事業や海軍の建設に使用することが可能となった。これらは地域経済と貿易を大いに潤した。878年、ヨルダン地溝帯がトゥールーン朝の占領下に入った。トゥールーン朝の支配は北はアンチレバノン山脈のビザンツ帝国との国境の前哨地帯まで広がり、これによってエジプトをアッバース朝の攻撃から防御することが可能となった。
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