アフガニスタン首長国とは? わかりやすく解説

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アフガニスタン首長国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 23:03 UTC 版)

アフガニスタンの歴史」の記事における「アフガニスタン首長国」の解説

1835年には君主の称号アミール変え、アフガニスタン首長国となった1830年代当時アフガニスタンは、中央アジアへの南下政策推進するロシア植民地インド防衛至上とするイギリス対立第I期グレート・ゲーム)に巻き込まれていた。1838年インド総督ジョージ・イーデンアフガニスタン派兵決断した第一次アフガン戦争始まりである。イギリス軍は、何の抵抗受けずカンダハール占領した1839年7月イギリス軍一気カーブル攻め込んだシャー・シュジャー復位した1840年ドースト・ムハンマド抵抗した成功せずカーブル城下イギリス軍降伏しカルカッタ追放された。 しかし1841年秋よりイギリス軍度重なる襲撃を受け、総督府の代表であったマクノーテン(英語版)と補佐役のバーンズ死去しカーブルからの撤退決める。翌年ジャララバード駐屯地向けて退却開始するが、到着するまでに2万人近いイギリス軍側の兵士非戦闘員はほぼ全滅した更迭されイーデン代わりインド総督となったエレンボローはアフガニスタン対し報復攻撃開始1842年7月にはカーブル突入し捕虜となっていた兵士救出バザール焼き払うなどしカーブル破壊した1842年9月イギリス軍カーブル引き揚げ第一次アフガン戦争終わった1843年ドースト・ムハンマド帰国シャー・シュジャー暗殺されドースト・ムハンマドが再び実権握った。さらに、イランガージャール朝アフガニスタンへ影響力強化図っていた。こうしたなかで、アフガニスタン1855年イギリスペシャーワル条約(英: Treaty of Peshawar )を結び、両国相互防衛定めた。そのため、翌1856年ガージャール朝ナーセロッディーン・シャーヘラート遠征すると、イギリスヘラート奪回しつつイラン攻撃し1857年パリ条約認めさせてガージャール朝アフガン進出挫いた。これにより、アフガニスタン国家領域明確になっていった

※この「アフガニスタン首長国」の解説は、「アフガニスタンの歴史」の解説の一部です。
「アフガニスタン首長国」を含む「アフガニスタンの歴史」の記事については、「アフガニスタンの歴史」の概要を参照ください。

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