アブドゥッラー・ヤフタリとは? わかりやすく解説

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アブドゥッラー・ヤフタリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 15:11 UTC 版)

アブドゥッラー・ヤフタリ
Abdullah Yaftali
生年月日 1914年5月6日
出生地 アフガニスタン首長国 カーブル
没年月日 (2003-07-17) 2003年7月17日(89歳没)
死没地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ベンチェラ
出身校 カーブル大学
所属政党 無所属

首相代行
在任期間 1967年10月11日 - 11月1日
国王 ザーヒル・シャー
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アブドゥッラー・ヤフタリパシュトー語: عبدالله خان يفتلي, Abdullah Yaftali、1914年5月6日 - 2003年7月17日)は、アフガニスタンの政治家。王政時代、計画相、財務相、副首相等を務めた。アブドゥッラー・ヤクター(عبدالله خان يکتا)とも。

経歴

カーブル出身。タジク人。カーブルの貴族学校、カーブル大学の自然科学学部を卒業した後、1935年に東京大学経済学部に留学した。

  • 1940年代 - アメリカ在住
  • 1943年 - 帰国し、国営アフガニスタン銀行の融資局長、建設銀行の役員を務めた。
  • 1947年~1949年 - 財務省税務局長
  • 1949年~1953年 - 国家独占局長官、カーブル大学の講師
  • 1953年~1959年 - 計画省統計局長、計画次官
  • 1959年~1965年 - 財務次官、財務相代行、閣僚会議書記
  • 1965年3月~11月 - 計画相
  • 1965年11月~1967年 - 財務相
  • 1967年 - 計画相、無任所相
  • 1967年10月~ - ムハンマド・ハーシム・マイワンドワール退陣後、首相代行
  • 1967年~1969年 - 第二副首相
  • 1969年~1971年 - 第一副首相

1971年から公職を去ったが、ムハンマド・ダーウード政権でも政治的影響力を保持し、ダーウードの国外訪問時には随行した。

1970年代末からアメリカ在住。

パーソナル

妻帯、3男3女を有する。英語、フランス語、日本語、ロシア語を話す。

父のミルザ・モハンマド・ヤフタリーは、貴族で、大商人だった。1920年~1922年、1926年~1928年、駐ソ大使を務め、ウラジーミル・レーニンとも会見した。

叔母は、ハビーブッラー・ハーン国王の王妃。

先代:
ムハンマド・ハーシム・マイワンドワール
アフガニスタン首相代行
1967年
次代:
ヌール・アフマド・イウティマーディー




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