アブドゥッラー・ビン・ジルウィー・トゥルキー・アル=サウ-ド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/30 15:46 UTC 版)
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アブドゥッラー・ビン・ジルウィー・トゥルキー・アル=サウ-ド(アラビア語:عبد الله بن جلوي بن تركي آل سعود、生年不明、推定1870年頃 - 1935年没)は、サウジアラビア王国の武将。
初代国王であるアブドゥルアズィーズ・イブン・サウードの親友でサウジアラビア王国建国の始まりとなったリヤドの戦いから国王と共にあり、建国初期の戦争の大半に従軍してサウジアラビア王国の軍事的勝利を支え続けた腹心である。 一騎当千、常勝無敗の武将で個人の武力では3千人対40人という圧倒的に不利な兵力差であったリヤドの戦いでアジュラーン総督の護衛部隊相手に無傷で圧勝しており100人以上いた敵は全滅している。 指揮官としては建国当初の対外戦争で常に敵より不利な兵力にも関わらず連戦連勝で圧勝を続け、世界最大の油田がある東部州を初め現在のサウジアラビア王国の領土の半分は彼が対外戦争で勝ち取った土地である。 最後に従軍したのはサウジ・イエメン戦争でこの戦争でのイエメンからの領土割譲がサウジアラビア王国が戦争で得た最後の領土となり彼の死後はサウジアラビア王国は対外戦争を控えるようになった。
1923年にサウジアラビア陸軍が誕生した時に初代総司令官、陸軍大将に就任、1331年に世界最大の油田がある東部州の初代州知事に就任して死没まで務める。
出自不明で初代国王がクウェートに亡命中に街で出会った少年という以外何もわかっていない。 年齢に関しても1876年産まれの国王より若いと言われたことから推定1870年頃ではないかと言われているだけで生年月日不明でリヤドの戦い当時はまだ十代だったと思われる。 体格に関しても小柄と言われているが、比較対象である国王が身長2mの大男であるため170cm以上はあったと思われる。 名前に関しても当人がジルウィーと名乗ったというだけでフルネームや出身部族すら不明で後に国王の妹であるダリル王女と結婚してサウード王家に婿入りしている。 (通常アラブ社会に婿入りという社会通念は無く例外的な措置である) ダリル王女との間にには男子2人、女子1人の子供が居て現在もジルウィー家を継承する子孫がいる。
現在は博物館になっているマスマク城に行くと城の城門に「ジルウィーが投げた槍が刺さった跡」と説明がある傷痕が残っている。 これはリヤドの戦いで敵の首領アジュラーン総督が城に逃げ込もうとしたところジルウィーが投げた槍が城門に刺さって閉まらなくなり国王が追いかけて打ち取った歴史を示している。
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