アニメ演出家として
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東京デザイナー学院(現:専門学校東京ネットウエイブ)卒業後、就職活動で参加した東京ムービーの見学コースから勝手に抜け出し、『ルパン三世』演出の御厨恭輔に入社を頼む。絵コンテを描いてくるようにと言われ、『ルパン三世』の完成台本を渡される。一週間か10日ほど後に絵コンテを持参し、数週間後に紹介されたCM制作会社アドックシステムズへ入社する。1年半ほどして黒川慶二郎社長からの紹介でシンエイ動画に入社。最初は『怪物くん』で制作進行を務め、その後、『フクちゃん』の途中で『ドラえもん』に異動し、演出助手に昇格する。そして1984年に『ドラえもん』の演出としてデビュー。『ドラえもん』での演出を通じて、当時のチーフディレクターだった芝山努の緻密な絵コンテの描き込み振りに影響を受けた。 藤子・F・不二雄の漫画が好きで、シンエイ動画に入る前はアニメの『ドラえもん』よりも原作の方が面白いと思っていた原は、『ドラえもん』の演出となると一日中絵コンテを考える生活になる。原が担当した『ドラえもん』のいつもより凝った構図は早くも注目され、アニメ雑誌『アニメージュ』1987年2月号に半ページの扱いで、傑作を続出させる若手演出家として紹介を受けた。今でこそ『ドラえもん(第2作第1期)』の担当演出作品はファンから絶大な支持を受けているが、当時のスタッフの中には彼の演出の手腕に難色を示した者も少なからず存在し、作画スタッフと対立を起こしたこともあった。その時に仲裁したのが総作画監督の中村英一であった。2017年7月7日までドラえもん(第2作第2期)の初代監督であった善聡一郎は「四次元ポケットのスペア(てんとう虫コミックス『ドラえもん』25巻収録『四次元ポケットにスペアがあったのだ』のアニメ化作品)」という話でのび太の悪戯に怒ったドラえもんが両手にタケコプターを持ってのび太の部屋に突入するシーンを一番の名演出とし「どっかで真似しよう」と思ったと語っている。なお、2011年7月8日に同エピソードが放送された際、ドラえもんはタケコプターを持たずにのび太の部屋に突入している。 『オバケのQ太郎』の絵コンテを何本かやった以外は数年『ドラえもん』に専念したのち、1987年に『エスパー魔美』のチーフディレクターとして抜擢され、2年半の長きに渡る仕事を務め上げた。しかし、若さ故の信頼度の低さが災いしてあちこちからクレームの嵐が来た(今でこそ20代の監督は珍しくないが、当時は異例だった)ため、ひどくストレスが溜まった。後番組『チンプイ』でもチーフディレクターの打診があったが、『魔美』終了後に東南アジアに旅行することを決め(『チンプイ』のチーフディレクターは本郷みつるになる)、『チンプイ』の絵コンテを数本切った後休職する。旅行は7ヶ月半にわたり、最終的に10ヶ月の休職ののちに復帰。復帰後は『チンプイ』の演出・絵コンテを少し手がけ、そして後番組『21エモン』の監督となるが、人気が今ひとつで39話で打ち切りとなった。
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