アツタとハ40
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/12/05 18:56 UTC 版)
本エンジンはドイツのみならずイタリアや日本などの枢軸国でライセンス生産されている。 日本では陸軍向けに川崎でハ40として、海軍向けに愛知で熱田としてライセンス生産している。同じエンジンを、陸海軍がそれぞれライセンス料を支払って別のメーカーに生産させたことから、ヒトラーが「日本陸軍と日本海軍は敵同士か」と笑ったというエピソードが人口に膾炙している(実際にそのような発言があったかは不明である)。ただし、当初は愛知1社で陸海軍双方へエンジンを供給する予定であり、別々となったのは陸海軍の縦割り意識によるものではなく、愛知の生産能力と必要数を誤算した結果である。 1936年、海軍は新開発の艦爆(彗星)に搭載するエンジンとしてダイムラーのエンジンを購入するために、DB600をライセンス生産していた愛知を窓口として交渉することとなった。この契約内容には供給先に関する規定はなく交渉途中で陸軍も参加しており、契約成立の際には陸海軍両方にエンジンを供給する予定であった。 しかし、交渉はライセンス料が折り合わず(一説では日本側の3倍近い額が提示されたとも言われる)このまま決裂する寸前のところ、当時再軍備宣言をして外貨獲得に奔走していたナチス・ドイツの仲介で交渉成立し愛知にライセンス販売されている。 だが、実際に生産を開始するにあたり愛知の生産能力では両軍に必要数を供給できないことが判明したため、改めて陸軍は液冷エンジンの実績を有する川崎にライセンス生産をさせることとしたのである。そうしてアツタとハ40を別の会社で生産することになった以上、その製造権は別々の物になる為、ライセンス料も別々に払ったのである。
※この「アツタとハ40」の解説は、「DB 601」の解説の一部です。
「アツタとハ40」を含む「DB 601」の記事については、「DB 601」の概要を参照ください。
アツタとハ40
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 10:03 UTC 版)
「ダイムラー・ベンツ DB 601」の記事における「アツタとハ40」の解説
本エンジンはドイツのみならずイタリアや日本などの枢軸国でライセンス生産されている。 日本では陸軍向けに川崎でハ40として、海軍向けに愛知で熱田としてライセンス生産している。同じエンジンを、陸海軍がそれぞれライセンス料を支払って別のメーカーに生産させたことから、ヒトラーが「日本陸軍と日本海軍は敵同士か」と笑ったというエピソードが知られている。 1936年(昭和11年)に生産が始まったDB601Aの高性能は、やがて日本海軍の知るところとなり、日本海軍は1938年(昭和13年)に、その高性能を活かした高速艦上爆撃機として十三試艦上爆撃機(後の彗星)の開発に着手し、DB601Aの国産化に向けて製造権の取得交渉も開始した。やや遅れて日本陸軍もDB601Aの高性能を知って製造権取得・国産化に乗り出し、1938年(昭和13年)に至って商社の大倉商事にライセンス生産権の取得交渉に当たらせることとした。先行していた日本海軍は、当初、その国内生産を川崎航空機に行わせようとしていたが、後になって十三試艦上爆撃機の機体生産を担当する海軍系の愛知時計電機(後の愛知航空機)にエンジン生産も行わせるよう変更したためもあって、話がまとまらなくなり、陸海軍は別個に製造権取得を進めるに至った。その結果、愛知時計電機が先行して1938年(昭和13年)に、川崎航空機はやや遅れて1939年(昭和14年)1月に、それぞれ別個にライセンス生産契約を締結し、ライセンス料もそれぞれ50万円ずつを支払った。 航空史の調査・研究・執筆を行っている渡辺洋二は、その著書において、当時の製造権取得の方法として、製造権を日本政府が購入する方式をとれば、ライセンス料は50万円の1件ですむところを、別個に交渉したためにライセンス料も別々に負担する結果を招いたと指摘し、日本陸海軍間の強いセクショナリズムの典型としている。 「三式戦闘機#エンジン」も参照 愛知と川崎が購入したライセンスは初期の型であるDB601A。ただし燃料噴射装置を生産していたボッシュはライセンス生産を認めなかったため、三菱が製造していた物を改造して使うこととなった。なお、無断でのコピー生産も行われたとされる。
※この「アツタとハ40」の解説は、「ダイムラー・ベンツ DB 601」の解説の一部です。
「アツタとハ40」を含む「ダイムラー・ベンツ DB 601」の記事については、「ダイムラー・ベンツ DB 601」の概要を参照ください。
- アツタとハ40のページへのリンク