アダルハルドゥスとワラの生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/02 04:17 UTC 版)
「パスカシウス・ラドベルトゥス」の記事における「アダルハルドゥスとワラの生涯」の解説
826年に書かれた『アダルハルドゥスの生涯』(羅:Vita Adalhardi)と836年に書かれた『ワラの生涯』(羅:Vita Walae)はいずれもパスカシウスにとってのロール・モデルたる人物の霊的な伝記である。この二作品は二人を記憶するために神に捧げられたもので、これらに記された生活の有り様は人々が従うべきものとして描かれている。 『アダルハルドゥスの生涯』はより簡潔である。本書は相当な程度型どおりの聖人伝となっているが、パスカシウスが用いた文体は当時書かれたものとしては独特なものであった。友の死を嘆きながら書いたこの作品で、パスカシウスはアダルハルドゥスとヘラクレアのゼウクシスを比較している。キケロによれば、芸術家は自身の作品を完璧にするためにモデルを研究するという。ゼウクシスはトロイのヘレナなる女性の体に絵を描くことに挑戦した。ゼウクシスが自身の作品を完璧にするために形を研究したのと全く同様に、アダルハルドゥスも自身の中の神の形象を再構築しようとしたのだとパスカシウスは述べている。このように古典古代の文化と当時の文化を比較したために、パスカシウスはカロリング期の人文主義的著作家とみなされている。パスカシウスはアダルハルドゥスをキリストの生き写しとして描き、苦難への転落と無限の愛という要素を強調した。彼はアダルハルドゥスの教会における役割を母のそれに準えたが、母の役割とはパスカシウスの没後300年ほどのシトー会の霊性に帰せられるものである。アダルハルドゥスの死による悲痛は本書において非常に強く表れている―祖ヒエロニムスが述べたように苦しみこそが喜びへの道を作り出すのだということをパスカシウスは知っていたが、友を失ったことによるパスカシウスの悲しみは彼の文学的なモデルのそれを上回っていた。こういった著述形式は12世紀以前には類を見ないものであった。パスカシウスが過剰な悲嘆を正当化したことは慰撫文学に対する彼の最も傑出した業績である。 『ワラの生涯』はより長く(『アダルハルドゥスの生涯』の約二倍の長さである)、対話篇として構成されている。コルビーの修道士と思われる8人の人物が登場する。これらの人物には仮名が与えられているが、それぞれの個性を覆い隠す意図はないものとされる。むしろこれらの仮名はパスカシウスによるワラの解釈を支持するのに役立っている、というのはそれらの名前が古典的文献から採られているからである。様々な文献(聖セバスティアヌス言行録、ヨブ記、プビリウス・テレンティウス・アフェルの喜劇)から採られた語句が織り合わさって本書を成している。ワラに関する情報が展開されていないものの、こういった説明はパスカシウスの個人的な信念や文学的技巧を反映している。『アダルハルドゥスの生涯』は葬送の際の挽歌のようなものとして書かれたのに対し、『ワラの生涯』はワラの(比較的)精確な伝記として書かれた。興味深いことに、パスカシウスはこの伝記を書く際に資料(ワラが書いた参考書や当時の論文)を用いており、ワラの生涯を描き出すうえで彼自身の思想が露わになっている。
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