アクアエ・セクスティアエ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:50 UTC 版)
「ガイウス・マリウス」の記事における「アクアエ・セクスティアエ」の解説
詳細は「アクアエ・セクスティアエの戦い」を参照 紀元前102年、蛮族が南下したとの報を受け、4度目の執政官に選出されていたマリウスは全軍を率いて属州ガリア・ナルボネンシスへと行軍した。アルプス山脈と地中海に挟まれたプロヴァンス地方へ到着するとロダヌス川に陣営地を建設して敵軍を待ち構えた。現れた軍勢はキンブリ族と同盟を結ぶテウトネス族(チュートン人)とアンブロネス族(英語版)だった。マリウスは復讐を逸る兵士達を抑えながら蛮族の行軍を阻止する事に専念させ、蛮族が陣営地を迂回すると先回りして再び行軍を阻止した。 やがて豊かな水源のあるアクアエ・セクスティアエに到達すると、痺れを切らしたアンブロネス族(英語版)が水を汲んでいたローマ軍の一団に単独で攻めかかった。マリウスは補助軍のリグリア人歩兵隊を送り出し、その間に軍団兵を集めてアンブロネス軍を川岸で打ち破った。アンブロネス族の敗退を知ったテウトネス王テウトボド(英語版)が陣営地に戻ろうとするローマ軍を追撃すると、マリウスは丘の上に陣を置いてテウトネス軍を迎え撃った。少ない手勢から兵を割いて別動隊を配置すると、敵正面の軍団兵に一歩も後退せず踏み留まる様に命じ、自らも剣を手に戦列に並んだ。 数では遥かに勝るテウトネス軍の猛攻をマリウス率いる正面軍は寡兵で押し返し、テウトネス軍が後退すると別動隊が背後を強襲して退路を塞いだ。テウトネス軍は包囲を破ろうと猛烈に抵抗したが、遂には数分の1のローマ軍に殲滅されて10万名以上の兵士が悉く死ぬか奴隷となった。戦場から逃げ出したテウトボド(英語版)も追手に捕縛され、二つの部族は消滅した(アクアエ・セクスティアエの戦い)。残された膨大なテウトネス族の遺骸は養分として土地を肥沃にし、マッセリアの農民は葡萄畑の垣根を蛮族の骨で作ったと言い伝えられている。その勇名は後世にまで残り、マリウスが勝利した古戦場はサント・ヴィクトワール山(聖なる勝利の山)と呼ばれる様になった。 戦勝の後、マリウスは戦利品を分配すると残った武具を火にくべて戦場での犠牲式を執り行った。そこに元老院の使者が5度目の執政官が決定したとの公文書を届け、マリウスは軍団兵の凱歌に包まれながら月桂樹の冠を授けられた。だが程なくマリウスの同僚執政官クィントゥス・ルタティウス・カトゥルスがキンブリ族を抑える手筈に失敗し、敗走しているとの報告も届いた。マリウスは単身でローマに戻って元老院で演説を行ったが、貴族から薦められた凱旋式は辞退してすぐにカトゥルスの陣営地に向かった。
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