アキテーヌ公家の相続人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:38 UTC 版)
「アリエノール・ダキテーヌ」の記事における「アキテーヌ公家の相続人として」の解説
アキテーヌ公領をアリエノールが相続することは法的に可能だったが、フランス国王の臣下として40日の軍役義務があり、かつ広大な領地を野心ある諸侯に囲まれ、女性1人でアキテーヌ公領を維持するのは困難と考えられた。 ギヨーム10世には弟レーモンがいたが、当時既に第1回十字軍が聖地に建設した十字軍国家の1つであるアンティオキア公国の君主であった。また、ギヨーム10世には庶子の男子がいたが、継承権はなかった。そこで嫡出の男子を得るため、1136年にリモージュ伯(英語版)エイマールの娘エマとの再婚を画策する。しかし、エマがリモージュの女子相続人であることから、南仏貴族達の反発にあい、エマはアングレーム伯(英語版)ウルグリン2世(英語版)と結婚させられた。さらに、アンジュー伯ジョフロワ4世に加勢してノルマンディー侵攻を試みるが失敗し、ギヨーム10世は塞ぎ込むようになる。 父の様子に対し、アリエノールと妹ペトロニーユは社交界を取り仕切るようになった。14歳になり結婚適齢期を迎えたアリエノールは、容姿を「世界の薔薇」と讃えられ、宮廷での恋愛遊戯を楽しむようになった。 翌1137年、父は奔放な娘たちを見かねて、ポワティエからボルドーのオンブリエール城(フランス語版)へ2人を移す。そして、自身はイベリア半島北部のサンティアゴ・デ・コンポステーラへ巡礼する予定だったが、同年4月8日、サンティアゴ・デ・コンポステーラを目前にして小川の水に中り、38歳で死去する。遺言によりアリエノールの後見はフランス王ルイ6世に託され、アリエノールとルイ王太子(後のルイ7世)の結婚も決められた。
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