アキテーヌおよびセプティマニア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/02 06:19 UTC 版)
「ギレム家」の記事における「アキテーヌおよびセプティマニア」の解説
ロンスヴォーの戦いの後、カール大帝はトゥールーズ伯トーソンへの信頼を失い、代わりに従兄弟ギヨームをトゥールーズ伯に任じた。これが一族の南ゴール、アキテーヌおよびセプティマニア、さらにはラングドックへの進出の嚆矢となった。皇帝ルートヴィヒ1世の治世の後、ベルナール・ド・セプティマニーは皇帝の息子たちの争いや843年のヴェルダン条約後の対立に乗じ、カタロニアおよびセプティマニアに領地を築いた。彼の業績は息子ベルナール2世が引き継いだ。その息子ギヨームは、トゥールーズおよびラングドックを失ったがアキテーヌ公となり、ギヨームの甥の死後にアキテーヌ公領はライバルであったポワティエ家の手に渡った。
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