アイルランドへの航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 16:37 UTC 版)
「フランスのアイルランド遠征」の記事における「アイルランドへの航海」の解説
12月19日までに、ブーヴェは33隻の艦を集めて、共にアイルランド南部のミゼンヘッド(英語版)へ向けて針路を執った。ここが指定された合流地点であり、ブーヴェはそこで、フランスからの次の命令のために5日待つようにと封緘命令で知らされた。フラテルニテは依然として不明だった。この艦の指揮官が不在であるにもかかわらず、艦隊はバントリー湾へ、かなりの強風と分厚い霧の中航海を続け、到着は12月21日にまでずれ込んだ 。ブーヴェがアイルランドへ向けて航海している間、当のフラテルニテは、ネストール(英語版)[要リンク修正]、ロメイヌ(英語版)、コカルド(英語版)と共に、艦隊の行方を追ってウエスタンアプローチを通っていた。知らず知らずのうちに霧の中でブーヴェの艦隊とすれ違ったド・ガレは、21日近くになって、自分の指揮下の小戦隊から、すぐ前方イギリスのフリゲート艦がいることを知らされ、イギリス艦から逃れるためだけに他の艦と離れた。敵の脅威から退いたフラテルニテは、正体不明の敵艦から逃れるより先に、その敵艦から、大西洋へと追われた。この復路でド・ガレは逆風に会っていることを知り、それから8日かけてミゼンヘッドに帰着した 。 フィービーがコルポイズ指揮下の艦隊をビスケー湾内で発見したのは、12月19日のことだった。翌日コルポイズは、ヴィルヌーヴ指揮下の、遅れて航海に出たフランス戦隊を発見し、これを追いかけたが、ヴィルヌーヴは強風の中、コルポイズ艦隊の追跡をうまくかわし、イギリス軍より先にロリアンに着いた。コルポイズの艦は嵐でかなりの損失を受けていた。これ以上の航海は無理だったので、コルポイズはスピットヘッドに退却して、艦を修理に出した。初代ブリッドポート男爵アレグザンダー・フッド指揮下の海峡艦隊の対応は、コルポイズ同様に功を奏しなかった。ブレストからフランス艦隊が出航した知らせは、イギリス艦隊の最も西にある基地のプリマスには、12月20日になってやっと届いていた。ブリッドポートの艦は多くがスピットヘッドにあり、出航の準備ができておらず、また艦に兵と物資を積み込むには数日を要した。12月25日に出動命令が下ったが、艦隊はすぐに混乱状態になった。二等艦プリンスが、大きく弧を描いて制御を失い、80門のサンス・パレイルに衝突したためだった。ほぼ時を同じくして、別の二等艦フォーミダブルが、強風により100門一等艦のヴィル・デ・パリス の射程内に追い込まれ、その一方で98門のアトラスが座礁した。全部で5隻の艦が、大々的な修理のため乾ドック入りが必要となった。これにより、ブリッドポートの最強艦隊は使えなくなり、出港はさらに延期された。ブリッドポートが最終的に、ソレント海峡からの出発点であるワイト島のセントヘレンズ(英語版)についた時は、西からの風が吹いて、係留してあった8隻の艦は動かせなくなり、1月3日までそのままの状態だった。 ド・ガレとオッシュが不在のため、ブーヴェと相方であるエマニュエル・ド・グルーシーは、12月21日に、翌日に備えて投錨するようすべての艦に命令を出した。一方、この土地の沿岸の案内人が、この艦隊をイギリスのものと思い込み、艦隊の外へ船をこいで行った所をフランス軍に捕えられた。この案内人たちは、上陸に一番適した場所の情報を教えようとしていた。12月21日の夜、天気がにわかに、そして大きく悪化して、強風は吹雪となり、海岸線が見えなくなって、艦隊は難破しないように投錨を強いられた。4日間、艦隊は湾内に閉じ込められ、経験の浅いフランスの水兵は、冬用の衣類に不足しており、1708年以来の寒波の中で船を操作することができなくなった。12月24日、風が弱まり、上級将校の間で、作戦会議が開かれた。将校たちは悪天候にもかかわらず、上陸を強行することを共に決意し、近くの水路が最も安全であると確認し、翌12月25日の日の出に、侵攻を行うように命令が出された。その日の夜、再び天候が悪化し、朝までに猛烈にしけて、多くの艦首が波でへし折れた。錨が引きずられ、多くの艦が湾の右岸の外から大西洋に流され、逆風のせいで湾に戻れなかった。この強風の中で、艦隊で最も大きなアンダンプタブル(英語版)はフリゲート艦のレゾリュ(英語版)と衝突し、双方とも大きな損失を受けた。
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