アイルランドでの生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 21:52 UTC 版)
「ジョナサン・スウィフト」の記事における「アイルランドでの生活」の解説
スウィフトは健康上の問題のため、1690年にテンプルの元からアイルランドに去ったが、翌年にはムア・パークへと戻った。その病気、眩暈の発作は今日ではメニエール病として知られているもので、スウィフトを終生絶えず悩まし続けるものであった。テンプルの元での2度目の滞在中、スウィフトは1692年にオックスフォード大学のハートフォード・カレッジでM.A.(修士号)を受けた。その後、スウィフトはどうやらテンプルの後援によってよりよい地位に就くことを諦めてムア・パークを去り、アイルランド教会の司祭に任命され、1694年にはキャリクファーガス近くのキルルートで俸給を定められた。 スウィフトは小さく辺鄙な共同体の中で孤立しており、新たな勤め口は惨めであった。しかし、そこでスウィフトはジェイン・ウェアリングと恋愛関係になった。もし彼女が彼と結婚するなら残ろう、そしてもし彼女が拒絶するなら別れて二度とアイルランドへ帰らないと約束しよう、という彼からの手紙が残っている。彼女はこの返事を拒絶したとされる。なぜなら、スウィフトはその地位を去ってイングランドに戻り、1696年にムア・パークのテンプルの元で働いて、テンプルの死まで残っていたからである。そこで彼はテンプルの回想録と書簡を印刷する準備の支援に取り組んでいた。この間、スウィフトはテンプルの『古代と近代の学問に関する小論』に対する批判に応える諷刺『書物合戦』を著した。しかし、『合戦』は1704年まで出版されなかった。 1699年1月、テンプルは死去した。スウィフトは、ことによると彼の仕事を知ることがイングランドにおけるふさわしい地位を彼にもたらすに違いないという希望をもって、テンプルの回想録の編集を終えるためにしばし滞在した。しかし、スウィフトの仕事は、回想録に含まれる無分別事に異議を唱えるテンプルの遺族や友人たちからは敵視された。彼の次の行動は、心に描いていたテンプルの縁故と、地位を約束されたという信念に基づいてウィリアム3世に謁見することであった。これは悲惨な失敗に終わり、彼はアイルランドの法院長の一人バークリー伯の家付き司祭兼秘書という、かつてよりも劣る地位を受けた。しかし、彼がアイルランドに到着した時、秘書の職は他の者に与えられたことを知った。それでも彼はすぐにララカーやアグハー、ラスベガンでの生活を得、ダブリンの聖パトリック寺院のダンラビンで俸給を得た。 トリムから1、2マイル、ダブリンからは20マイルのララカーで、スウィフトは約15名から成る会衆のために尽力し、そして豊富な余暇を自分の庭の手入れ、運河の掘削(ムア・パークのオランダ式に倣った)、柳の植樹、牧師館の再建に費やした。彼はバークレー卿の牧師としてダブリンで多くの時を過ごし、次の10年にわたって頻繁にロンドンへ旅立った。1701年には、スウィフトは匿名で政治パンフレット「アテナとローマにおける不和抗争についての論説」を印刷した。
※この「アイルランドでの生活」の解説は、「ジョナサン・スウィフト」の解説の一部です。
「アイルランドでの生活」を含む「ジョナサン・スウィフト」の記事については、「ジョナサン・スウィフト」の概要を参照ください。
- アイルランドでの生活のページへのリンク