アイルランガ王による王国再建
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 18:52 UTC 版)
「クディリ王国」の記事における「アイルランガ王による王国再建」の解説
アイルランガとその后はいのちからがら難を逃れて、1019年、イサナ王朝を継ぐ者として王位に就いたが、当初彼の勢力範囲は、プランタス川河口付近とバスルハン付近に限られるせまいものであった。しかし、1028年から体制をたてなおして彼の義父の王国を再建する事業にとりかかり、1037年にジャワ東部の統一事業を完成した。そして王都をカフリパンに遷した。この王都は、プランタス河口付近にあったと思われるが正確な位置は不明である。アイルランガ王は、1041年、プチャンガンにプラサスティ(王の勅令などを刻んだ石碑のこと。しばしば「刻文」と訳される。)を建て、自分がシンドク王のイサナ家を継ぐものであって、シンドク王や義父ダルマヴァンシャ王がなしえなかったジャワ東部に本拠を置く統一王権を確立したことを刻ませた。アイルランガ王は、東部ジャワ統一事業をすすめるとともにプランタス川の農業開発にからんだ治水事業と海外交易の振興を行った。プランタス川下流のワリンギン・サプタに堤防や池を築かせたことが、1037年に刻まれたカマラギャンのプラサスティにみることができる。この堤防によって、洪水が防がれて、生産力の増大に寄与するだけでなく、商人たちの物資運搬にも貢献し、一石二鳥であった。アイルランガ王は、海外交易に強い関心をもっていたが重点を置いていたのは、インドとの交易だったようである。またアイルランガ王は、文芸の保護し、彼の治世の代表作として『アルシュナウィワーハ』すなわち、「アルシュナの婚礼」と呼ばれるカカウィンという形式の古ジャワ語による叙事詩が知られている。王は、晩年に王位継承争いを防ぐために王国をプランタス川河口付近を支配するジャンガラ王国と内陸のクディリに都を置くパンジャル王国に分割し、妾との間の二人の息子に継承させた。その年代については1049年以前とする説と、年代記『デーシャワルナナ』の新写本の1052年とする説がある。
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