アイザック・ドーマンとは? わかりやすく解説

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アイザック・ドーマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/18 09:52 UTC 版)

アイザック・ドーマン(アイザック・ドウマン、Isaac Dooman、1857年 - 1931年)は、明治時代に米国聖公会から日本に派遣されたアメリカ人宣教師教育者奈良英和学校や東京三一神学校(現・聖公会神学院)で教授を務めたほか、未開拓の地で教育、伝道活動を進め、新天地の開拓を行った[1][2]

人物・経歴

1857年、アルメニア人として中東ペルシャに生まれる[1]

1884年、27歳の時にアメリカに渡り、アメリカで帰化する[1][2]

4年間、ニューヨーク神学院で学び、1888年(明治21年)に卒業すると[1][2]、同年、米国聖公会海外伝道本部から日本伝道の宣教師に任命され、夫人とともに来日する[1][2]。同年3月に聖公会の奈良英和学校に赴任する。当時の教え子には米田庄太郎(後の京都帝国大学教授)がいた[2]

1891年(明治24年)、東京築地の東京三一神学校(現・聖公会神学院)の比較宗教学講師として嘱託され東京へ赴任する。その際、弟子の米田庄太郎も上京し、ドーマンの助手を務めた。

その後、群馬県前橋市に赴任し、J. アンブラー(J.Ambler)の後任として前橋聖公堂(現・前橋聖マッテア教会)で司牧し[3]、1897年(明治30年)には前橋市に英語夜学校(前橋聖マッテア教会英語夜学校の前身校)を開設する[4]

1894年(明治27年)には和歌山聖救主教会で司牧しており、稲垣陽一郎(後の聖公会神学院校長、日本聖公会司祭)に洗礼をさずけた[5]

そのほか、ドーマンは1923年(大正12年)まで日本で伝道活動を続けるが、先述の奈良や和歌山に加えて未開拓であった川越金沢などの新天地も開拓するなど、35年間に渡って教育と伝道活動に尽力した[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f 『神國ニ於ケル一傳道師ノ生活』 図書出版 京都 阿吽社
  2. ^ a b c d e 中川良和「奈良英学史抄」『英学史研究』第1978巻第10号、日本英学史学会、1977年、121-134頁、ISSN 1883-9282 
  3. ^ 「前橋聖マッテア教会の宣教初期」等から思うこと マッテアとマルコの家,2022-04-06
  4. ^ 立教史データベース 日本聖公会過去五十年の回顧『英語の学校』 聖公会の英語学校,基督教週報第20巻第7号,1909年10月15日
  5. ^ 『日本キリスト教歴史人名事典』81-82頁。



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