アイオワ:移民の故郷
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「アイオワ州の歴史」の記事における「アイオワ:移民の故郷」の解説
南北戦争後、アイオワ州の人口は劇的な増加を続け、1860年の674,913人から1870年の1,194,020人にまでなった。さらにアイオワ州の民族構成もかなり変化した。南北戦争前、アイオワ州は外国生まれの開拓者を惹き付けたが、その数は少数に留まっていた。南北戦争後、移民の数が増加した。1869年、州は「アイオワ州:移民の故郷」と題する66ページの小冊子を発行することで移民を奨励した。この小冊子には、アイオワの自然、社会、教育および政治が詳述されていた。州議会はこの小冊子を英語、ドイツ語、オランダ語、スウェーデン語およびデンマーク語で発行させるよう指示した。 アイオワの豊かな農園と繁栄する都市は多くの移民を惹き付けることに成功した。ドイツ人は最大の集団であり、あらゆる郡に入植したが、特にミシシッピ川沿いが多かった。大多数は農夫になったが、また職人や商店主になった者も多かった。ドゥビュークとダベンポートがその中心だった。さらにある者は新聞を編集し、教師となり、銀行を経営した。大きな集団としては、アイオワ・サイノド・ルーテランズ、ミズーリ・サイノド・ルーテランズおよびローマ・カトリック教徒であり、メソジストやバプテストもいた。ドイツ人は職業、宗教および入植した地域で大きな多様化を示した。 アイオワ州にはヨーロッパの他の民族も多くを惹き付けた。スウェーデン人、ノルウェー人、デンマーク人、オランダ人、およびブリテン諸島からの多くの移住者だった。1900年以降、ヨーロッパ南部や東部からの移民もあった。多くの場合、移民の集団は特定の場所、さらに職業ですら識別された。ノルウェー人を含むスカンディナビア人はウィネシーク郡とストーリー郡に入植した。スウェーデン人はブーン郡に入植した。デンマーク人はアイオワ州南部に入り、ほとんどが農業に携わった。オランダ人はアイオワ州内に2つの大きな入植地を造った。最初はマリオン郡であり、次はアイオワ州北西部だった。 ヨーロッパ南部と東部の移民、特にイタリア人やクロアチア人はアイオワ州中部と南部にばらまかれた炭坑に入った。しかし、1925年頃からアイオワ州の石炭業は衰退を始めた。1950年代半ばまでに州内には地下坑道式炭坑が数カ所残るのみとなった。 19世紀後期から20世紀初期にアイオワに移住したアフリカ系アメリカ人の大半も炭鉱労働者になった。南北戦争前、アイオワ州には少数のアフリカ系アメリカ人しかいなかったが、1880年代にその数は著しく増加した。初期アフリカ系アメリカ人の多くは、アイオワの炭坑運営者によってストライキ破りのために雇われた。しかし、その後の数十年間で炭坑運営者は通常の坑夫としてアフリカ系アメリカ人採用した。
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