かりふぉるにあ丸沈没事故
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「かりふぉるにあ丸」の記事における「かりふぉるにあ丸沈没事故」の解説
1970年1月24日ロサンゼルス港を出港。乗員29名。同年2月9日、低気圧の中、千葉県野島崎東方320km地点北緯35度10分東経143度55分で大波を2度受け航行不能となりSOS発信。ニュージーランド船「オーテ・アロア」、自動車運搬船「えくあどる」などが救助に向かった。 船員退避の際全ての救命ボートを荒天で喪失し、かりふぉるにあ丸は脱出不能に陥っていたため、米軍救難機が搭載していた5個の救命ボートを投下。しかし船体に投下出来ず、「オーテ・アロア」から荒天下決死の覚悟で発進した救難艇によって22人を救助。しかし住村博船長(当時45歳)と三等航海士が退船を拒否し、救難艇の固定用に下ろしたロープが救難艇に絡んだため住村船長の指示で三等航海士はロープを切断するために厨房から持ち出した包丁を持って下船。直後にロープが自然に外れるが、住村船長は自ら沈み行く船と行動を共にするとして下船せず、結果的に殉職した。船長の最後の言葉は「みんな行ってくれ わしゃ残るわ」である。 船長が船と共に死ぬことを選んだ背景には、当時の船員法第12条に「船長の最後退船義務」が規定されていたこと、太平洋戦争において艦長が船と共に死ぬことが事実上不文律化していたなどが挙げられる。結局、この事件などが契機となり、同年に船員法12条から最後退船義務の一節が削除された。 なおこれとは別に、救命艇降下作業中に転落したボートにて漂流していた2人が13時間後、川崎汽船所属の貨物船「えくあどる」に発見され、米軍救難機の支援の下救助された。
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