『国学忘貝』の儀撰者はだれかとは? わかりやすく解説

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『国学忘貝』の儀撰者はだれか

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:18 UTC 版)

義経=ジンギスカン説」の記事における「『国学忘貝』の儀撰者はだれか」の解説

岩崎先の金史列将傳』の他、『大清會典』、『図書集成』、『香書集成』など捏造書物があると記している。長見の『国学忘貝こくがくわすれがい)』(天明3年1783年)の『古今図書集成』のなかに『図書輯勘』百三十巻があり、清帝の序文にこう書かれているとされる。 「朕姓は源、義経末裔其の先は清和出づ故に國を清と號す」 義経清朝先祖説の火付け役になったのはこの『国学忘貝であった。『古今図書集成』は実在の書であり、これを典拠とする最初記述明和6年(1769)の戸部良煕『韓川筆話』であり、「『古今図書集成中に清朝皇帝先祖源義経、と明確に記されている」と述べている。また蓑笠庵梨一(さりゅうあんりいち)『奥細道抄(おくほそみちすがごもしょう)』(安政七年=1778)では、「平泉」の解説文中に「今の中華は、韃靼人の治にて、世を清と云い、その先義経を祖とす。故に世号も亦清和源氏の清を取と」と述べられている。伊勢貞丈は『古今図書集成』の序文写しを見る機会恵まれたが、「義経先祖」などいう言葉一言もなく、貞丈は『安斎随筆』において「巷でかれている古今図書集成云々の話は大嘘である」と怒り露わにしている。また谷川士清も『倭訓の栞』(安政6年=1777)中で否定している。桂川中良はこの話題関し強い希望持ち紅葉山文庫所蔵の『古今図書集成』の閲覧希望し、兄の桂川甫周閲覧斡旋してもらい、初巻、蔣廷錫(しょうていしゃく)の表文いずれも義経」の記述はなく、総目録の『図書輯勘』もなかった。つまりは存在しない書物だった」と記している。 長見自体はこの説を提唱していない。は『浄土真宗名目図』(峻諦述・玄智補)に「伊藤才蔵之記より出す」の言葉をみたからではないか森村宗冬は推察している。岩崎克己は『義経入夷渡満書誌』中で、「古く伊藤蘭嵎の名が引き合い出されているところから見て京都がこの説の発展重大な寄与をしていることは推察難くない。しかし更に遡れば実在本書何らかの関わり合い持った者の空想がこれに参画していたのではなかったか」として長崎江戸で空想起こった可能性強調している。即ち、これが輸入された際、最初に検閲係として当たった書物改役が、解題書物・絵などの解説)したついでに捏造したではないか岩崎推察している(岩崎前掲書)。 神沢貞幹や多く著者影響与えたと云われ重野安繹は、義経清祖説は長見捏造始まりだと考えた

※この「『国学忘貝』の儀撰者はだれか」の解説は、「義経=ジンギスカン説」の解説の一部です。
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