『国家』におけるギュゲスの指輪
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「ギュゲースの指輪」の記事における「『国家』におけるギュゲスの指輪」の解説
『国家』の中でギュゲスの指輪の話を紹介したのは、プラトンの兄グラウコン(英語版)である。グラウコンは、誰にも知られず不正を行なうことができる場合に、ギュゲスのように不正を行なって栄華を極める人と、正義を貫いて何も得ない人と、どちらが良い人生を送ったと言えるのかとソクラテスに質問した。正義を勧めるときに、世の人々は良い評判が利益につながることを理由として挙げるが、それは、人に知られず不正を働き、良い評判を得たまま利益もおさめられればよいという考えにつながらないかという疑問である。 グラウコンの主張は次のものである。 さて、かりにこのような指輪が二つあったとして、その一つを正しい人が、他の一つを不正な人が、はめるとしてみましょう。それでもなお正義のうちにとどまって、あくまで他人のものに手をつけずに控えているほど、鋼鉄のように志操堅固な者など、ひとりもいまいと思われましょう。市場から何でも好きなものを、何おそれることもなく取ってくることもできるし、家に入りこんで、誰とでも好きな者と交わることもできるし、これと思う人々を殺したり、縛めから解放したりすることもできるし、その他何ごとにつけても、人間たちのなかで神さまのように振る舞えるというのに! ――こういう行為にかけては、正しい人のすることは、不正な人のすることと何ら異なるところがなく、両者とも同じ事柄へ赴くことでしょう。 ひとは言うでしょう、このことこそは、何びとも自発的に正しい人間である者はなく、強制されてやむをえずそうなっているのだということの、動かぬ証拠ではないか。つまり、〈正義〉とは当人にとって個人的には善いものではない、と考えられているのだ。げんに誰しも、自分が不正をはたらくことができると思った場合には、きっと不正をはたらくのだから、と。これすなわち、すべての人間は、〈不正〉のほうが個人的には〈正義〉よりもずっと得になると考えているからにはかならないが、この考えは正しいのだと、この説の提唱者は主張するわけです。事実、もし誰かが先のような何でもしたい放題の自由を掌中に収めていながら、何ひとつ悪事をなす気にならず、他人のものに手をつけることもしないとしたら、そこに気づいている人たちから彼は、世にもあわれなやつ、大ばか者と思われることでしょう。ただそういう人たちは、お互いの面前では彼のことを賞讃するでしょうが、それは、自分が不正をはたらかれるのがこわさに、お互いを欺き合っているだけなのです。 — プラトン、『国家〈上〉』岩波書店、1979年4月16日、109-110頁。 ソクラテスの(あるいはプラトンの)答えは、正義はこの社会的構造から派生してきたものではないと主張し、不正に身を委ねるのは、自らを精神の中の醜く汚れた部分の奴隷にすることであり、外的な状況がどうあろうとその状態はみじめだというものであった。ギュゲスの指輪の力を乱用した人物は実際、自身の持つ食欲に奴隷になったが、一方で指輪を使用しないことを選択した男性は、合理的に自分自身をコントロールしているため、幸せであるという。
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