『元朝秘史』の記述
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「クイテンの戦い」の記事における「『元朝秘史』の記述」の解説
『元朝秘史』は『集史』や『聖武親征録』といった他の史料に比べて物語色が強いと屡々評されるが、「クイテンの戦い」についての記述はとりわけ史実と乖離していることが指摘されている。「クイテンの戦い」に至る流れは上述したように「(1)チラウンらのテムジン派への投降(2)タイチウト氏・タタル部の撃破によるモンゴルの勢力拡大に対し、(3)危機感を強めたコンギラトら東方諸部族がジャムカを推戴して結集したがそれでも敵わず、(4)ナイマン・メルキト・オイラトといった遠方の諸部族も味方に引き入れて決戦を挑んだ」結果生じたものである。しかし、『元朝秘史』は(1)(2)と(3)(4)の順番を入れ替えて「クイテンの戦いの結果、タイチウト氏の撃滅とチラウンらの投降が生じた」と記し、また(3)と(4)を混同してナイマン・メルキト・オイラトを含むモンゴル高原一円の諸部族からジャムカが推戴されてテムジンに戦いを挑んだかのように記している。 『元朝秘史』がこのように史実を改変して「クイテンの戦い」について記述するのは、編者がテムジンにとって幼少期以来の宿敵であるタイチウト氏の撃滅を最も重要であると見なす故に、「タイチウト氏の撃滅」がクイテンの戦いの主題であると読者が認識するよう務めたためであると考えられている。
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『元朝秘史』の記述
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「ジャライルタイ・コルチ」の記事における「『元朝秘史』の記述」の解説
『元朝秘史』巻12第274節にはオゴデイ・カアンによるチョルマグンの西アジア派遣、バトゥの東欧派遣に続いて、高麗へのモンゴル軍派遣について以下のように記されている。 さきに、女真人・高麗人[の国に]出征したるジャライルタイ・コルチの後詰めにはイェスデル・コルチを出征させて、「鎮戍の軍(タンマチ)として、留まらしめよ」とのご沙汰があった。 — オゴデイ・カアン、『元朝秘史』第281節 当初、『元朝秘史』の記す「ジャライルタイ・コルチ(札剌亦児台豁児赤)」は単純にオゴデイ時期に高麗方面に出兵した「撒礼塔/撒里台」と同一人物であるとみなされ、柯劭忞の『新元史』や屠寄の『蒙兀児史記』などでも札剌亦児台豁児赤=撒礼塔/撒里台であることを前提に立伝されている。しかし、(1)「撒里台」と「札剌亦児台」では音価が一致せず、むしろモンケ時期の「車羅大」の方が相似すること、(2)1258年/丁巳年に「車羅大」への援軍として「余愁達」が派遣されていることは、『元朝秘史』の「ジャライルタイの後詰めにイェスデルが派遣された」という記述によく合致すること、(3)同274節には「チョルマグンがバグダードの民を帰順させた」とあるが、バグダードを陥落させたのはモンケ時期のフレグであって時系列の混乱が見られること、などを踏まえ現在では「札剌亦児台=モンケ時期の車羅大」と見なし、『元朝秘史』巻12第274節にはオゴデイ時期の外征とモンケ時期の外征の記述が入り乱れていると解釈するのが一般的である。
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