イェスイとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > イェスイの意味・解説 

イェスイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/05 08:04 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

イェスイ(也遂、也速)ないしイェスルン(Yesulun)(? - ?)は、モンゴル帝国の始祖チンギス・カンの皇妃。タタル部の出身。

元史』后妃表は、イェスイを第3オルドの長としている。一方で『集史』「チンギス・ハン紀」后妃表では、5人の大ハトゥンの序列第3位にイェスルンを挙げている。イェスイについて、正史にこれ以上の記述はない。

イェスイの故事については、『元朝秘史』に記載されたいささか物語的なエピソードが全てである。『新元史』太祖也遂皇后伝も『元朝秘史』の記述をそのまま引き写したにすぎない。

イェスイは、タタル部のイェケ・チェレンの娘であった。1202年にチンギス・カンがタタル部を討滅した際、イェスイの妹のイェスゲンを略奪し、寵姫とした。イェスゲンはチンギス・カンに「可汗は我を人間らしく扱い、寵愛してくれている。我が姉のイェスイは我より美しい。最近結婚したが、どこかに流離しているだろう。」と申し出た。別の女を寵姫として薦める奇特な発言に対してチンギス・カンが「ではもしも汝より美しければ、汝は自分の地位を譲るか。」と問うと、イェスゲンは「譲る。」と答えた。興をそそられたチンギス・カンがイェスイを捜させると、イェスイは夫とともに森に逃げ込んでいた。チンギス・カンは夫を打ち払い、イェスイを奪った。イェスイが連れてこられると、イェスゲンは寵姫の座に姉を座らせ、自らは下座に退いた。しかし、チンギス・カンはこれを嘉し、イェスゲンも引き続きイェスイとともに寵愛した。[1]

その後、チンギス・カンがイェスイとイェスゲンを傍に侍らせ、宴を行っていると、イェスイがしきりとため息をついていた。不審に思ったチンギス・カンが宴の参加者を部族に分かれて立たせてみると、一人の若者がどこの部族にも入らなかった。問いただすと「我はイェスイの夫であった者である。急襲され逃げたが、ほとぼりが冷めた今戻ってきた。多数の中で気づかれることはないと思った。」と答えた。チンギス・カンは「妻を奪われ敵意を持ってやってきた者だ。」として、若者をその場で誅殺した。[2]

1218年のホラズム・シャー朝征討の際、チンギス・カンの身に不幸があった際に備え、あらかじめ後継者を指名するよう、チンギス・カンの家内を代表して発声した。[3]

1226年の西夏征討の際、イェスイがチンギス・カンに伴った。征討の途上でチンギス・カンが病に陥った際、イェスイが諸将を呼び集めて善後策を協議させた。[4]

チンギス・カンは結局そのまま没したが、イェスイは西夏の民を与えられた。[5]

出典

  1. ^ 『元朝秘史』第155節
  2. ^ 『元朝秘史』第156節
  3. ^ 『元朝秘史』第254節
  4. ^ 『元朝秘史』第265節
  5. ^ 『元朝秘史』第268節



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「イェスイ」の関連用語

イェスイのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



イェスイのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのイェスイ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS