「華国鋒体制」と「二つのすべて」
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「二つのすべて」の記事における「「華国鋒体制」と「二つのすべて」」の解説
急速に台頭した華は、これまでの国務院総理に加え、中国共産党中央委員会主席、中国共産党中央軍事委員会主席に就任し、党・行政・軍の三権を独占する指導者となった。毛沢東でさえも三権を独占したことはなく、形の上では毛以上の突出した指導者となった。しかし華のリーダーシップは、脆弱な連合の下に形成されたものだった。しかも、「四人組」のクーデター的な追い落としからも明らかなように、華は正式の手続きを経て権力の継承をしたのではなく、その正統性は弱かった。 ここで彼が依拠したのは、もっぱら「あなたがやれば、私は安心だ」との毛沢東が華に宛てた「遺言」だった。毛思想の忠実な実践者であることが華の権力移譲の唯一の根拠だった華は、「二つのすべて」の方針を提起した。これに加え、華は「毛主席のイメージを損なうすべての言動を制止しなければならない」というもう一つの「すべて」も語っていた。華にとっては、毛沢東の権威を守ることこそ中国共産党および自らの支配の正統性を維持するための一大事であり、制度改革を口では唱えたものの、従前の政策を大きくかつ速やかに変更する意思も迫力も欠いていた。 二つないし三つの「すべて」がまったくの不合理であったわけではない。1977年1月、周恩来死去一周年の前後に、北京などいくつかの大都市、中都市において大衆が自発的な追悼活動を行った。その際に、第一次天安門事件の名誉回復と鄧小平復活の要求や、大衆を弾圧した中央指導者たちへの強烈な批判のほか、文革に対する批判も出た。華らは、このような事態を重視し、党中央は明確な態度表明をすべきだと考えて「二つのすべて」を打ち出したと言われる。「四人組」の残党との闘争が続く中で、毛沢東の遺訓に従い、万事「過去の方針に照らして」行うと明示することによって、権力移行期の大局の安定を確保するとともに、より直接には天安門事件の名誉回復と鄧小平の復活を阻止しようとしたのである。 しかし他方で、長期にわたる経済の停滞、疲弊が深刻化してきており、華は鄧小平が取り組み始めていた経済の再建に華自身のやり方で取り組まざるを得なかった。しかし革命路線の継承と経済建設は、毛沢東と劉少奇との対立、「四人組」と鄧小平との対立が物語るように所詮「水と油」の如く相容れないものであった。華は無謀にもこの矛盾する課題を同時に取り込んで推進しようとしたのである。
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