「知識」と「技術」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 04:24 UTC 版)
「快楽」についての検討を終えたソクラテスは、次に「知性・知識」の検討へと移る。 まずソクラテスは、「技術的知識」は、「教育・教養に関わるもの」と「職人的なもの」に、言い換えれば「学問的知識」との関わりが「多いもの」と「少ないもの」に分けることができ、前者は「数・量・目方を測る技術」(算数)やそれに深く関連した「建築術」「造船術」「木工術」などであり、後者は訓練によって感覚を磨く「音楽術」「医術」「農耕術」「操船術」「軍事術」などであると指摘する。プロタルコスも同意する。 さらにソクラテスは、その「算数」も、一般人が建築や商取引などに用いる場合と、知識追求を目的とする学者が幾何・計算で用いる場合に分けられると指摘する。そしてこうした分け方をしたのは、先の「快楽」の場合と同様に「知識」の「純粋度の相違」を考察するためだと主張する。プロタルコスも同意しつつ、その知識追求を目的とする人(学者)の技術こそが、他と比べて「精確さ」と「真実性」においてはかり知れない優位性を持っていると応じる。 そこでソクラテスが、はるかに「真実」この上ない「知」と言える「真実に有るもの」「常にあらゆる面で同一性を保っているもの」を扱う「問答の術」についてはどうか問うと、プロタルコスは対抗してゴルギアスからは「弁論術」(説得術)こそがあらゆる技術と比べてずっと優れたものであると度々聞かされると対案を出しつつ、しかしソクラテスにもゴルギアスにも反対の構えをしたくないと自身の判断は留保する。 ソクラテスは、自分が問うているのは、(ゴルギアスの「弁論術」(説得術)のような)「(世間的な)利益をもたらす」という点で最大最多最優秀な「技術・知識」なのではなく、たとえ小さくとも「明確・精確」なもの「真実」なるもの、常に「同一性・同一状態」を保つものを対象として考察する「技術・知識」のことであると指摘する。プロタルコスも同意する。 そしてソクラテスは、「本当に有るもの(真実在)」について知るはたらきの上に置かれるなら、「知性・思慮」といった名前は正しいものとなると指摘する。プロタルコスも同意する。 こうして「快楽」と「思慮」についての個別の考察を終え、「混合」についての議論へと移行していく。
※この「「知識」と「技術」」の解説は、「ピレボス」の解説の一部です。
「「知識」と「技術」」を含む「ピレボス」の記事については、「ピレボス」の概要を参照ください。
- 「知識」と「技術」のページへのリンク