「知識」と「思いなし(思惑)」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 06:08 UTC 版)
「メノン (対話篇)」の記事における「「知識」と「思いなし(思惑)」」の解説
39. ソクラテスは、逆に言えば、「思いなし(思惑)」が正しい限りは、常にうまくいくと指摘。メノンは、それではなぜ「知識」は、「思いなし(思惑)」より高く評価されるのか問う。ソクラテスは、「ダイダロスの彫像」を例に出す。「ダイダロスの彫像」は、そのままでは逃げ去って無くなってしまうが、縛り付けておけば値打ちものとなる、同じように、正しい「思いなし(思惑)」も、そのままでは魂から逃げ去ってしまう(忘却されてしまう)が、それを先の「想起」の話のように、「原因・根拠の思考」(すなわち言論(ロゴス))で以て縛りつければ、「知識」として、「永続的」に価値のあるものとして留める(記憶する)ことができる、それゆえ「知識」は、「思いなし(思惑)」より高く評価されるのだと。 40. ソクラテスは、これはあくまでも比喩を使った推量だが、それでも「知識」と正しい「思いなし(思惑)」が別のものだということ自体は確かだと述べる。メノンも、同意する。
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「知識」と「思いなし(思惑)」
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「メノン (対話篇)」の記事における「「知識」と「思いなし(思惑)」」の解説
本篇では、「知識」と「思いなし(思惑)」の差異についても言及されている。 「思いなし(思惑)」は、それがたまたま上手くいっている「正しい思いなし(思惑)」である限りは、機能・有益性としては「知識」と等価だが、「思いなし(思惑)」は、「原因・根拠・理論」によって裏付けられていないがゆえに、失敗する可能性が常に孕まれていると同時に、記憶に定着させることも困難であることが言及されている。 それゆえに、「思いなし(思惑)」を、「行き詰まり(アポリア)の自覚」(無知の知)を経て探求していくことで、「知識」にまで高めていくことの重要性も、ソクラテスと召使の幾何学的問答を通して、本篇では示唆されている。 ちなみに、本篇では、「ダイダロスの彫像」を例に出し、 正しい「思いなし(思惑)」を、「言論(ロゴス)」で縛りつけることで、それが「知識」になる ということが、(一応、これは「比喩を使った推量」に過ぎない不確かなものであり、「思いなし(思惑)」と「知識」が別ものであることだけは確かであるということを、表現・強調したいがために持ち出した話であることを、断ってはいるものの)ソクラテスによって主張されている。しかし、プラトンは後に、中期末の対話篇『テアイテトス』において、この「知識」が「正しい思いなし(思惑)+言論」であるという考えを、改めて自ら丁寧に否定している。 そして、その『テアイテトス』や、『国家』の「線分の比喩」、『パイドロス』『ピレボス』『第七書簡』等の記述も併せて考慮すると、「言論の技術」である弁証術(ディアレクティケー)を使って、魂の中の「知性」を育てていき、それによって(あたかも視覚などの感覚が物質を直接捉えるのと同じように)「直接的に真実在としてのイデアを観照・把握」した情報や、「対象に関連した情報の総体を十全に把握」すること等が、厳密・十分な「知識」の条件・要件として求められることになる。
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