「泣く木」にまつわる噂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 15:09 UTC 版)
元来は河畔の巨木にすぎなかったこのハルニレが、様々ないわくを持つ「泣く木」となった経緯に関しては、様々な説がある。 明治初期より北海道の開拓が本格化するにつれ、現在の栗山町内でも開墾のかたわら室蘭本線を敷設する工事が進行していた。しかし人跡未踏の地では労働力の確保が困難であり、現在の三笠市市来知(いちきしり)にあった空知集治監に収容されていた政治犯が囚人労働として難工事に当たることとなった。特に明治23年(1890年)から24年(1891年)にかけて掘削された栗山トンネルの工事は困難を極め、多くの労働者が寒冷な気候と過酷な労働に耐えきれず倒れていったという。その遺骸は工事現場にほど近い「泣く木」の根元に無造作に埋葬された。一説によれば、ここに埋まる遺体の数は30体を下らないという。 また、「近所にあったタコ部屋の炊事婦が土工から繰り返し強姦され、それを苦にしてこの木で縊死した」「近隣に住むアイヌの娘と開拓民の青年が恋に落ちたが、周囲から結婚を反対され、この木で首を吊って心中した」との説もある。 「伐採しようとすれば泣き声を上げる」「伐採しようとした者が祟られる」との噂以外にも、「泣く木に供え物をした婦人が、その帰り道に奇妙な大男(タコ部屋労働者?)の霊につきまとわれた。」「昭和26年(1951年)ごろ近隣でトンネル工事が行われたが、コンクリートを流し込むたびに型枠が外れ、失敗が繰り返された。そこで『泣く木』に神酒と赤飯を捧げて祈ったところ、たちどころに成功した。」「昭和45年に『泣く木』が伐られたのち、その残骸を焼き捨てた。ところがその際の炎は恐ろしく赤く、それでいて熱くなく、煙も立ち上らなかった。そして、焼き捨てた者はその年のうちに死んだ。」との話が伝わっている。 なお、多くの書物で「『泣く木』を伐採した作業員は間もなく不慮の死を遂げた」と説明されているが、実際の作業員・Kは、昭和60年(1985年)には生存が確認されている。
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